2025年03月17日
なべちゃん食堂お別れの会
人の世は必ず始まりがあって、終わりがある。
3月の初め、久保会長から今まで利用させてもらっていた『なべちゃん食堂』が3月いっぱいで閉店されるとのことを聞いた。
「え、なんで」「建物が古いからオーナーが解体に踏み切られたようだ。」


私は昔のことはよくわからんが、ここは前は、映画館だったそうで、その後パチンコ店になり、『なべちゃん食堂』に至ったようだ。
私も河浦碁会に入れてもらってなかったら、全然知らない世界だった。
春と秋、年2回ぐらいは利用させてもらっていた。
私もここは気に入っていた。70歳、80歳過ぎたおじさん達が集まって飲む機会はそうはない。囲碁のなせる業だろう。
「じゃ、お別れ会を開きましょう。」と言うことで、3月13日、午後6時に決まった。当日は久保さんに迎えに来てもらった。牛深からは3名、河浦は4名、計7名。丸山さん、田口さん、崎本謹ちゃんが都合で来れなかったのが残念だった。
嶋津ご住職の音頭で乾杯し、飲み会が始まった。




いつも。大江の魚屋さんから、刺身は来るのだが、この日はスーパーゼロの刺身だった。これはこれで美味かった。
飲みながら話題は、メジャーリーガーの大谷の開幕戦と、天草の囲碁人記で盛り上がった。天草では、誰が強かったでしょうという話になった。
中鋪さん、森田教育長、松岡さん、沖崎さん。無量寺の春光さん、岩崎3兄弟と、次々に名前が出てくる。「あれ、誰か1人忘れてはいませんかってんだ?」松崎さん、野田さん、横山さんが出て来た。「もうそろそろ俺の名前が出て来てもいいころだが」、なかなか出て来ない。「ありゃ、この人たちは、詳しいようで、詳しくないなァ」「頼むから何事も心配しないで、胸に手を当てて思い出してくれよー」「後はどんぐりの背比べ、一山いくらのガリガリ亡者ばかりだ。」「くそっー、とうとガリガリ亡者にしてしまったかァ、嫌な人たちと出会ったよ。来るんじゃなかった。」
宴も終わりに近づいて来たので、ママさんを囲み記念写真を撮らせてもらった。最後に俺が『磯節し』を唄った。みんなで手拍子で場を盛り上げた。溝口さんも負けじと唄い出された。






いいお別れ会だった。壁には、他のお客さんからの感謝のメッセージが掛けてあった。

長い間、町民の皆様から支えられ、愛されて来たんだなァーとメッセージから感じ取れた。
ここに男の隠れ家が、また一つ消えていくのは寂しい限りだ。
「なべちゃん食堂、長い間ご苦労様でした。ママさんありがとう!」
3月の初め、久保会長から今まで利用させてもらっていた『なべちゃん食堂』が3月いっぱいで閉店されるとのことを聞いた。
「え、なんで」「建物が古いからオーナーが解体に踏み切られたようだ。」


私は昔のことはよくわからんが、ここは前は、映画館だったそうで、その後パチンコ店になり、『なべちゃん食堂』に至ったようだ。
私も河浦碁会に入れてもらってなかったら、全然知らない世界だった。
春と秋、年2回ぐらいは利用させてもらっていた。
私もここは気に入っていた。70歳、80歳過ぎたおじさん達が集まって飲む機会はそうはない。囲碁のなせる業だろう。
「じゃ、お別れ会を開きましょう。」と言うことで、3月13日、午後6時に決まった。当日は久保さんに迎えに来てもらった。牛深からは3名、河浦は4名、計7名。丸山さん、田口さん、崎本謹ちゃんが都合で来れなかったのが残念だった。
嶋津ご住職の音頭で乾杯し、飲み会が始まった。




いつも。大江の魚屋さんから、刺身は来るのだが、この日はスーパーゼロの刺身だった。これはこれで美味かった。
飲みながら話題は、メジャーリーガーの大谷の開幕戦と、天草の囲碁人記で盛り上がった。天草では、誰が強かったでしょうという話になった。
中鋪さん、森田教育長、松岡さん、沖崎さん。無量寺の春光さん、岩崎3兄弟と、次々に名前が出てくる。「あれ、誰か1人忘れてはいませんかってんだ?」松崎さん、野田さん、横山さんが出て来た。「もうそろそろ俺の名前が出て来てもいいころだが」、なかなか出て来ない。「ありゃ、この人たちは、詳しいようで、詳しくないなァ」「頼むから何事も心配しないで、胸に手を当てて思い出してくれよー」「後はどんぐりの背比べ、一山いくらのガリガリ亡者ばかりだ。」「くそっー、とうとガリガリ亡者にしてしまったかァ、嫌な人たちと出会ったよ。来るんじゃなかった。」
宴も終わりに近づいて来たので、ママさんを囲み記念写真を撮らせてもらった。最後に俺が『磯節し』を唄った。みんなで手拍子で場を盛り上げた。溝口さんも負けじと唄い出された。






いいお別れ会だった。壁には、他のお客さんからの感謝のメッセージが掛けてあった。

長い間、町民の皆様から支えられ、愛されて来たんだなァーとメッセージから感じ取れた。
ここに男の隠れ家が、また一つ消えていくのは寂しい限りだ。
「なべちゃん食堂、長い間ご苦労様でした。ママさんありがとう!」
2025年03月09日
木山初市最終回
「冬来たりなば春遠からじ」暦の上では春だが、まだまだ寒い日が続いている。奈良東大寺の二月堂のお水取りは、3月12日である。それが終わらないと本格的な春は来ないらしい。
3月1日と2日は益城町の木山初市だった。ここに出店するようになってから、18年近くになる。その間いろいろな人と出会い、知り合いになったり仲間になったり、沢山の人脈ができた。
18年の間には、私も嫁も大きな手術をし現在に至っているが、歳も70歳越えるとあちこちとガタがきて泊りがけのイベントがきつくなってきた。
今年を最後に、お世話になった皆さんにお礼がちら行くことにした。
朝から曇っていたが、イベント会場に着くと晴れて来てテントの中まで日が差し込んできた。陳列していた商品に日が当たって来たので、売り台を後ろに下げた。ステージで催しが始まった。
我々の店にもお客さんが入れ代わり立ち代わり買いに来てくれた。
そして毎年たくさん買って下さる古賀先生が来られた。
この人は昔、牛高の教員をしておられた。その頃私が、石酔会の幹事をやっていた頃、一緒に碁を打ったり、飲んだりした仲間だった。
熊本地震前までは、ここ木山通りの中央に木山座があった。先生が私の所の蒲鉾を買ってくれ、「ちょこっと打って行かんね。木山座の2階で今碁会をやっているから。」と言って、オレを引っ張っていかれた。
木山座の前では、婦人部が『市だご』を販売していた。そこにはずらっと行列が出来ていた。それを横目に二階へ上がり、先生が紹介して下さり、打たせてもらった。当時は五段で打ったのだが、次々と向かって来るのだが、みんなやられる。院生くずれとか、六段が向かって来るけど、負かしてしまった。「オーイ、県代クラスのだれだれさんを呼んでこーい」とあたかも道場破りが来たような騒ぎだった。
「あッ、俺はここには仕事で来てたんだ。」と我に返り、急いで仲間のテントの所へ帰った。
「あんた、いつまでしといと、仕事はほったらかして。」嫁はご立腹だった。
今年もたくさん買って頂いた。「先生、今年で最後になります。記念に写真をお願いします。」と言って、撮らせてもらった。

今年も、「釣りはいらん」と言って、一万円を置いて行かれた。
ステージでは、ペルーの音楽が演奏されていた。
「コンドルは飛んで行く」この曲は好きである。 本場の人達が演奏してるかと思ったが、日本人だった。

レポーターの樫山結さんが私のテントの前で蒲鉾を紹介してくれた。

また、お客さんもテレビ見ましたという人が多くいて、今年は今までで一番売れたようだ。

夕方帰り支度をしていたら、雨が降り出した。その日は男の隠れ家、ビジネスホテル「こめや」に泊まった。4時ごろこめやに電話を入れた。「今日は私の誕生日なので、刺身とかできますか?」と、「今日はあいにくお客がいっぱいで、手が回りません」との返事だった。仕方ないか。こめやにも手土産をもってチェックインした。
夕食時間になったので、食堂に行ってみると、「今日はすみませんネ。誕生日の方はどちらさんですか。」と「私です」と言うと、「鶏の唐揚げを多めにしときました。」と言って3人分持って来られた。
一瞬、我々は目が点になり、言葉を失った。気を失いそうになった。息子が言った。「この人は宗教上の理由で、鶏肉と豚肉は食べないんですよ。」と、女将さんには気の毒ではあったが、食べれないものは食べれない。
「カキとナマコがありますが、どちらがいいですか」「カキでお願いします」それから、ウナギの竜田揚げも出して下さった。
少し気を良くし、3人で74歳の誕生日を祝った。


その日は若女将が休みだった。おられたらオレの好みは知っておられたものを。
翌日、朝から少し雨が降っていた。朝食を食べている間には止んだ。昼から晴れ上がり、木山座の前は人だかりだった。

ステージでは餅投げならぬ、豆投げがあっていた。

古賀先生、お茶の富澤さん、清水の親分、商工会の担当者にお別れの挨拶をし、来年からは息子たちが来ますが、これまで同様よろしくお願い申し上げます。長い間有難うございました。
追伸
♪明かりをつけましょボンボリに、お花を上げましょ桃の花♪
孫娘のひな祭りが質素に行われた。


3月1日と2日は益城町の木山初市だった。ここに出店するようになってから、18年近くになる。その間いろいろな人と出会い、知り合いになったり仲間になったり、沢山の人脈ができた。
18年の間には、私も嫁も大きな手術をし現在に至っているが、歳も70歳越えるとあちこちとガタがきて泊りがけのイベントがきつくなってきた。
今年を最後に、お世話になった皆さんにお礼がちら行くことにした。
朝から曇っていたが、イベント会場に着くと晴れて来てテントの中まで日が差し込んできた。陳列していた商品に日が当たって来たので、売り台を後ろに下げた。ステージで催しが始まった。
我々の店にもお客さんが入れ代わり立ち代わり買いに来てくれた。
そして毎年たくさん買って下さる古賀先生が来られた。
この人は昔、牛高の教員をしておられた。その頃私が、石酔会の幹事をやっていた頃、一緒に碁を打ったり、飲んだりした仲間だった。
熊本地震前までは、ここ木山通りの中央に木山座があった。先生が私の所の蒲鉾を買ってくれ、「ちょこっと打って行かんね。木山座の2階で今碁会をやっているから。」と言って、オレを引っ張っていかれた。
木山座の前では、婦人部が『市だご』を販売していた。そこにはずらっと行列が出来ていた。それを横目に二階へ上がり、先生が紹介して下さり、打たせてもらった。当時は五段で打ったのだが、次々と向かって来るのだが、みんなやられる。院生くずれとか、六段が向かって来るけど、負かしてしまった。「オーイ、県代クラスのだれだれさんを呼んでこーい」とあたかも道場破りが来たような騒ぎだった。
「あッ、俺はここには仕事で来てたんだ。」と我に返り、急いで仲間のテントの所へ帰った。
「あんた、いつまでしといと、仕事はほったらかして。」嫁はご立腹だった。
今年もたくさん買って頂いた。「先生、今年で最後になります。記念に写真をお願いします。」と言って、撮らせてもらった。

今年も、「釣りはいらん」と言って、一万円を置いて行かれた。
ステージでは、ペルーの音楽が演奏されていた。
「コンドルは飛んで行く」この曲は好きである。 本場の人達が演奏してるかと思ったが、日本人だった。

レポーターの樫山結さんが私のテントの前で蒲鉾を紹介してくれた。

また、お客さんもテレビ見ましたという人が多くいて、今年は今までで一番売れたようだ。

夕方帰り支度をしていたら、雨が降り出した。その日は男の隠れ家、ビジネスホテル「こめや」に泊まった。4時ごろこめやに電話を入れた。「今日は私の誕生日なので、刺身とかできますか?」と、「今日はあいにくお客がいっぱいで、手が回りません」との返事だった。仕方ないか。こめやにも手土産をもってチェックインした。
夕食時間になったので、食堂に行ってみると、「今日はすみませんネ。誕生日の方はどちらさんですか。」と「私です」と言うと、「鶏の唐揚げを多めにしときました。」と言って3人分持って来られた。
一瞬、我々は目が点になり、言葉を失った。気を失いそうになった。息子が言った。「この人は宗教上の理由で、鶏肉と豚肉は食べないんですよ。」と、女将さんには気の毒ではあったが、食べれないものは食べれない。
「カキとナマコがありますが、どちらがいいですか」「カキでお願いします」それから、ウナギの竜田揚げも出して下さった。
少し気を良くし、3人で74歳の誕生日を祝った。


その日は若女将が休みだった。おられたらオレの好みは知っておられたものを。
翌日、朝から少し雨が降っていた。朝食を食べている間には止んだ。昼から晴れ上がり、木山座の前は人だかりだった。

ステージでは餅投げならぬ、豆投げがあっていた。

古賀先生、お茶の富澤さん、清水の親分、商工会の担当者にお別れの挨拶をし、来年からは息子たちが来ますが、これまで同様よろしくお願い申し上げます。長い間有難うございました。
追伸
♪明かりをつけましょボンボリに、お花を上げましょ桃の花♪
孫娘のひな祭りが質素に行われた。


2025年02月24日
緊急告知、放送時間変更について
先日、RKK放送で6時から放送されるとブログで書いていましたが、放送される時間が変更になりました。
今日(2/24)の午後5時20分からの放送となります。
今日(2/24)の午後5時20分からの放送となります。
2025年02月18日
冬将軍とRKK取材
♪さーよならあなた~私は帰ります~風の音が胸をゆする泣けとばかりに アァーアー津軽海峡冬景色~♪
2月5日明け方、この日は熊本のグランメッセで商談会が入っていた。次男と朝5時前に牛深を出た。
内の原のトンネルを出たら、雪が降りだした。「まずい」と思ったが、まだ道路には積もっていなかったので、そのまま走らせた。
路木橋を過ぎたら銀世界だった。追い越し車線のある道路を走っていたら、車がスリップしだした。「まずい、ここでUターンしよう」と思ったが、車は坂道を登っていた。「主留の停留所でUターンしよう」とバス停まで行き、Uターンしたのだが、今度は坂道を登れない。
「後続の車が来たらまずいことになる」と思い、バックしてさっきのバス停で待機した。すると大型トラックと軽自動車が前を通って行った。
「公志、今の車の後に続け」と言って、車をゆっくり走らせた。
河浦のコンビニまで行って、そこで夜が明けるまで待機しようと決めた。開店はしてなかったが、準備中だったのだろう、中に人影が見えた。時計を見たら、5時半過ぎだった。
6時に店内の電気がつき、開店した。トイレを借り、あったかいコーヒーとピザを買って来て車の中で腹ごしらえをした。
公志は初めての経験だったのだろう。食欲がなかった。車のエンジンはかけたまま雪が止むのを待った。
7時過ぎには雪も止み、車も通りだした。ケータイで主催者に電話を入れ、雪で行けない事を伝え、家路に就いた。
帰り、内の原を通ったら、雪が積もっていた。あのまま帰っていたら、内の原で立往生だっただろう。雪の日は車に乗らないのが一番だ。
2月7日、8日、9日とRKKの取材が入った。くんせい蒲鉾が出来るまでの取材らしい。
2月7日、魚の頭きり作業。魚の肉取り、晒し作業を撮られた。

2月8日、蒲鉾を作る作業。この日は、朝から雪が積もっていた。



「まずい」車で工場まで行けない。全員に昼まで待機してもらった。RKKのディレクターさんにもTELを入れた。そしたら、今日は牛深に泊まっているとの事で安心した。
12時から我々家族だけで作業することになった。女性従業員の方は内の原だったので、車が通わないとの事で休みとなった。
本来雪の日、仕事はしないのだが、テレビの取材が入っていたので、やらざるをえなかった。
寒い日は蒲鉾が横に広がり、固まりもしないので、良い蒲鉾が出来ない。それにこの日に限って、小さなアジを配達して来た。
このアジは身が取れず、できた蒲鉾は横に流れるのが特徴である。出来た製品は案の定であった。
2月9日、最終日、カメラマンと音声さんが加わり、3人での本格取材であった。この日は雪も止み天気も良かった。




後はテレビでのお楽しみという事で、ぜひご覧ください。
放送は2月24日(月)午後6時RKK『ゲツキン』で放送されます。
また孫娘ツムギも初めての雪に大はしゃぎ、雪ダルマを作って楽しんだようだ。


笑いは百薬の長
「ほうこのトイレには花が2つも飾ってあるネーなんて花だい。」「水仙とふきのとうです。」
とある団体客の一行が、中国の孟子廟を見学に行った。運悪く工事中で見学できなかった。仕方がないので、孔子廟に行くことになった。着いてみると、入館時間は過ぎているのに、まだ開いていない。団体客の1人が係員を呼び、「一体どうなっているんだ。なぜ開けないんだ。」と詰め寄る。「スミマセン。もうしこうし待ってください。」
2月5日明け方、この日は熊本のグランメッセで商談会が入っていた。次男と朝5時前に牛深を出た。
内の原のトンネルを出たら、雪が降りだした。「まずい」と思ったが、まだ道路には積もっていなかったので、そのまま走らせた。
路木橋を過ぎたら銀世界だった。追い越し車線のある道路を走っていたら、車がスリップしだした。「まずい、ここでUターンしよう」と思ったが、車は坂道を登っていた。「主留の停留所でUターンしよう」とバス停まで行き、Uターンしたのだが、今度は坂道を登れない。
「後続の車が来たらまずいことになる」と思い、バックしてさっきのバス停で待機した。すると大型トラックと軽自動車が前を通って行った。
「公志、今の車の後に続け」と言って、車をゆっくり走らせた。
河浦のコンビニまで行って、そこで夜が明けるまで待機しようと決めた。開店はしてなかったが、準備中だったのだろう、中に人影が見えた。時計を見たら、5時半過ぎだった。
6時に店内の電気がつき、開店した。トイレを借り、あったかいコーヒーとピザを買って来て車の中で腹ごしらえをした。
公志は初めての経験だったのだろう。食欲がなかった。車のエンジンはかけたまま雪が止むのを待った。
7時過ぎには雪も止み、車も通りだした。ケータイで主催者に電話を入れ、雪で行けない事を伝え、家路に就いた。
帰り、内の原を通ったら、雪が積もっていた。あのまま帰っていたら、内の原で立往生だっただろう。雪の日は車に乗らないのが一番だ。
2月7日、8日、9日とRKKの取材が入った。くんせい蒲鉾が出来るまでの取材らしい。
2月7日、魚の頭きり作業。魚の肉取り、晒し作業を撮られた。

2月8日、蒲鉾を作る作業。この日は、朝から雪が積もっていた。



「まずい」車で工場まで行けない。全員に昼まで待機してもらった。RKKのディレクターさんにもTELを入れた。そしたら、今日は牛深に泊まっているとの事で安心した。
12時から我々家族だけで作業することになった。女性従業員の方は内の原だったので、車が通わないとの事で休みとなった。
本来雪の日、仕事はしないのだが、テレビの取材が入っていたので、やらざるをえなかった。
寒い日は蒲鉾が横に広がり、固まりもしないので、良い蒲鉾が出来ない。それにこの日に限って、小さなアジを配達して来た。
このアジは身が取れず、できた蒲鉾は横に流れるのが特徴である。出来た製品は案の定であった。
2月9日、最終日、カメラマンと音声さんが加わり、3人での本格取材であった。この日は雪も止み天気も良かった。




後はテレビでのお楽しみという事で、ぜひご覧ください。
放送は2月24日(月)午後6時RKK『ゲツキン』で放送されます。
また孫娘ツムギも初めての雪に大はしゃぎ、雪ダルマを作って楽しんだようだ。


笑いは百薬の長
「ほうこのトイレには花が2つも飾ってあるネーなんて花だい。」「水仙とふきのとうです。」
とある団体客の一行が、中国の孟子廟を見学に行った。運悪く工事中で見学できなかった。仕方がないので、孔子廟に行くことになった。着いてみると、入館時間は過ぎているのに、まだ開いていない。団体客の1人が係員を呼び、「一体どうなっているんだ。なぜ開けないんだ。」と詰め寄る。「スミマセン。もうしこうし待ってください。」
2025年01月16日
国士無双
遅まきながら、新年のご挨拶を申し上げます。
まずはまご娘ツムギのご挨拶から。

「皆さん明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。」
元旦は家族が集まり、みんなでお屠蘇を飲み、食事をするのが正月のならわしである。


『久保田』を傍らに置き、数の子や刺身を肴に飲む酒は格別である。ツムギもみんなからお年玉をもらってご満悦だった。
まだお年玉の意味はわからないだろう。料理にも関心がなく、スマホの動画に見入っていた。

午後過ぎたら、亀浦、崎津のそれぞれの嫁の実家に新年の挨拶に行くと言って帰って行った。
しばらくテレビを見てくつろいでいたら、電話がかかって来た。「アッこれはひょっとしたら床屋さんかも。」着信を見たら、やっぱり。
「今何ばしよいと?」「電話ばしてます」「そいはわかっとい。よかったら一局教えてもらえないでしょうか」と、「出て来いと言われれば、行かないが、教えてくださいと言われると行かざるを得ない。」ちょっと待てよ、去年の正月も出て行って袋叩きにあったな。オレは酔っぱらって、相手は素面だったからなァー。今年もそう思っておられるに違いない。碁敵に背中を見せるわけにもいかない。「よし、馬をひけー」

結果は、1勝2敗で負けたが、年の差は11歳もある。85歳の方と、正月でも遊んでもらえるという事は、囲碁冥利に尽きる。
1月3日、牛深八幡宮に初詣に行くのが我が家のならわしである。ツムギは相変わらず境内を所せましと走り回っていた。
家内安全、商売繫盛、無病息災、交通安全を祈願し、お祓いをしてもらった。最後、お神酒を頂き、神事は終わった。



みんなで記念写真を撮って、正月の行事は終わった。
一方、ツムギ達の正月三が日はというと、元日は午後から崎津、2日はうちの嫁の実家亀浦へ新年の挨拶に行った。
嫁の弟の次男坊とその子供が帰ってきていた。ツムギはその子供たちと直ぐ打ち解けて、一緒に遊びまわった。


♪お正月には凧揚げて~コマを廻して遊びましょう~♪
という唱歌があるが、本物の凧揚げなんてツムギは初めてだろ。


みんなで凧揚げしたり遊んだりして、昔の唱歌の風景そのままだ。田舎にはその素朴さがまだ残っている。
正月三が日間は天気にも恵まれ、良い正月日和だった。
また年末は各方面からいろいろな贈り物を頂き、有難うございました。北海道からはラーメンセットと酒、奈良からは柿、嶋津ご住職からは「月桂冠の大吟醸」、亀浦の弟からは、「瑞鷹」とこの場を借りて厚くお礼申し上げます。




特に北海道からの酒は「国士無双」という酒だった。

思えば私たちが作っている「くんせい蒲鉾」は70年前から作られている牛深伝統のくんせい蒲鉾の味を後世に伝え、残していくために日夜努力精進している。おそらく世界中または、日本全国探しても無い蒲鉾であると思っている。
我々は蒲鉾業界の国士無双であり続けなければならない。
来年から後期高齢者の仲間入りするが、生き残るためのしっかりとした布石を敷き、人から一目置かれる存在になりたいと思っている。
大器晩成未だ成就せず、凡器をいだきやすらかに生く。
今年もつたない小欄をよろしくお願い申し上げます。
まずはまご娘ツムギのご挨拶から。

「皆さん明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。」
元旦は家族が集まり、みんなでお屠蘇を飲み、食事をするのが正月のならわしである。


『久保田』を傍らに置き、数の子や刺身を肴に飲む酒は格別である。ツムギもみんなからお年玉をもらってご満悦だった。
まだお年玉の意味はわからないだろう。料理にも関心がなく、スマホの動画に見入っていた。

午後過ぎたら、亀浦、崎津のそれぞれの嫁の実家に新年の挨拶に行くと言って帰って行った。
しばらくテレビを見てくつろいでいたら、電話がかかって来た。「アッこれはひょっとしたら床屋さんかも。」着信を見たら、やっぱり。
「今何ばしよいと?」「電話ばしてます」「そいはわかっとい。よかったら一局教えてもらえないでしょうか」と、「出て来いと言われれば、行かないが、教えてくださいと言われると行かざるを得ない。」ちょっと待てよ、去年の正月も出て行って袋叩きにあったな。オレは酔っぱらって、相手は素面だったからなァー。今年もそう思っておられるに違いない。碁敵に背中を見せるわけにもいかない。「よし、馬をひけー」

結果は、1勝2敗で負けたが、年の差は11歳もある。85歳の方と、正月でも遊んでもらえるという事は、囲碁冥利に尽きる。
1月3日、牛深八幡宮に初詣に行くのが我が家のならわしである。ツムギは相変わらず境内を所せましと走り回っていた。
家内安全、商売繫盛、無病息災、交通安全を祈願し、お祓いをしてもらった。最後、お神酒を頂き、神事は終わった。



みんなで記念写真を撮って、正月の行事は終わった。
一方、ツムギ達の正月三が日はというと、元日は午後から崎津、2日はうちの嫁の実家亀浦へ新年の挨拶に行った。
嫁の弟の次男坊とその子供が帰ってきていた。ツムギはその子供たちと直ぐ打ち解けて、一緒に遊びまわった。


♪お正月には凧揚げて~コマを廻して遊びましょう~♪
という唱歌があるが、本物の凧揚げなんてツムギは初めてだろ。


みんなで凧揚げしたり遊んだりして、昔の唱歌の風景そのままだ。田舎にはその素朴さがまだ残っている。
正月三が日間は天気にも恵まれ、良い正月日和だった。
また年末は各方面からいろいろな贈り物を頂き、有難うございました。北海道からはラーメンセットと酒、奈良からは柿、嶋津ご住職からは「月桂冠の大吟醸」、亀浦の弟からは、「瑞鷹」とこの場を借りて厚くお礼申し上げます。




特に北海道からの酒は「国士無双」という酒だった。

思えば私たちが作っている「くんせい蒲鉾」は70年前から作られている牛深伝統のくんせい蒲鉾の味を後世に伝え、残していくために日夜努力精進している。おそらく世界中または、日本全国探しても無い蒲鉾であると思っている。
我々は蒲鉾業界の国士無双であり続けなければならない。
来年から後期高齢者の仲間入りするが、生き残るためのしっかりとした布石を敷き、人から一目置かれる存在になりたいと思っている。
大器晩成未だ成就せず、凡器をいだきやすらかに生く。
今年もつたない小欄をよろしくお願い申し上げます。
2025年01月07日
年末かく戦えり(後編)
前半がまだの方はこちら
「新年の挨拶は、次回ゆっくりさせてもらうという事でお許し下され!」
12月4日、あの男が帰って来た。カナダからのカウボーイだ。半袖を着て少しポッチャリとしている。「寒くはないかい」と聞くと、カナダからすると日本はまだ暖かいそうだ。カマボコをいっぱい買ってくれた。

3月いっぱい、レストラン『うみそら』をやっているそうだ。大矢野を通られることがあったら、時間があったら、ぜひ立ち寄って下さい。
12月5日、2週間前位から、右ひざの所に違和感があった。どうにも我慢できず、市民病院の整形に行った。
「どうされました?」と看護婦が尋ねた。「足がパンパンに張って水が溜まっているみたい。」と言うと、「すぐレントゲンを撮ります。終わった待合室で待っていて下さい。」「今日は少ないから直ぐ先生に診てもらえますよ。」
診察室に呼ばれると、「足を見せてください」診察台に仰向けに寝て、右足を見せた。「アッ、水が溜まっている。抜きましょう」と言って、注射器2本分抜いてくれた。オレが「金は貯まらず、水ばっかり溜まるなァー」と言うと、みんな苦笑した。レントゲンの結果「ひざの軟骨が炎症を起こしている」と説明してくれた。
12月14日、12月の年金支給日は15日が日曜日の為、13日に前倒しで支給された。いつも年金日に久玉のグリーントップで売り出しがある。年末だったので、14,15日の2日間、売り出しがあった。
「餅と一緒に送る」とか「ミカンと一緒に送る」とか、「お歳暮で送ってくれんかなァー」とかで、盛況だった。グリーントップの売り出しの中では過去最高を記録した。
また、15日はツムギのお遊戯会が保育園であった。
12月に入って休みがなかったので、この日は仕事を休みにした。
ツムギと男の子とで開演の挨拶をすることになっていた。見に行きたかったが、グリーントップの売り出しがあった為行けなかった。


でも今はスマホの動画で見れるから、便利な世の中になったね。
12月20日、河浦囲碁部会の12月の月例会があったが、私は仕事で参加できなかった。が、夜の忘年会には出席させてもらった。例によって、居酒屋『ナベちゃん』で行われた。
今回は、牛深から、野田さんが初参加された。野田さんの乾杯の音頭で始まった。今回はオレ、嶋津先生、出永さんを除くとみんな役所出の方々で、碁より役所対抗のスポーツ関係の話に花が咲いた。

その後、ハイヤ節の話になり、溝口さんが野田さんに「ハイヤ節を唄ってくれ」と言い出された。「いや、ハイヤ節は難しくて誰でもは唄えんとさな」と返し、オレも「素人では、唄いきらんもんな」と言って、「磯節なら唄えるばってん」と言ったら、「ぜひ、唄ってくれー」と言われたが、まだ素面だったので、断ったのだが、一発唄ってみても良かったかなァーと後で思った。

最後に五段以下の人達は、皆、来年から一段昇段することが決まった。これからも段に恥じないよう精進されることを切望します。
12月24日、市民病院の整形に2度目の水を抜きに行く。この頃は疲れがピークに差し掛かり、朝起きるのも嫌になって来た。
12月29日、燻製機の中の火を消した時はホッとした。注文の品は全部発送してしまい。売り損なうことはなかった。
こうして年末の戦いは無事終わった。みんな、よく頑張った。来年は機械、機具の異常の無いことを祈る。
「新年の挨拶は、次回ゆっくりさせてもらうという事でお許し下され!」
12月4日、あの男が帰って来た。カナダからのカウボーイだ。半袖を着て少しポッチャリとしている。「寒くはないかい」と聞くと、カナダからすると日本はまだ暖かいそうだ。カマボコをいっぱい買ってくれた。

3月いっぱい、レストラン『うみそら』をやっているそうだ。大矢野を通られることがあったら、時間があったら、ぜひ立ち寄って下さい。
12月5日、2週間前位から、右ひざの所に違和感があった。どうにも我慢できず、市民病院の整形に行った。
「どうされました?」と看護婦が尋ねた。「足がパンパンに張って水が溜まっているみたい。」と言うと、「すぐレントゲンを撮ります。終わった待合室で待っていて下さい。」「今日は少ないから直ぐ先生に診てもらえますよ。」
診察室に呼ばれると、「足を見せてください」診察台に仰向けに寝て、右足を見せた。「アッ、水が溜まっている。抜きましょう」と言って、注射器2本分抜いてくれた。オレが「金は貯まらず、水ばっかり溜まるなァー」と言うと、みんな苦笑した。レントゲンの結果「ひざの軟骨が炎症を起こしている」と説明してくれた。
12月14日、12月の年金支給日は15日が日曜日の為、13日に前倒しで支給された。いつも年金日に久玉のグリーントップで売り出しがある。年末だったので、14,15日の2日間、売り出しがあった。
「餅と一緒に送る」とか「ミカンと一緒に送る」とか、「お歳暮で送ってくれんかなァー」とかで、盛況だった。グリーントップの売り出しの中では過去最高を記録した。
また、15日はツムギのお遊戯会が保育園であった。
12月に入って休みがなかったので、この日は仕事を休みにした。
ツムギと男の子とで開演の挨拶をすることになっていた。見に行きたかったが、グリーントップの売り出しがあった為行けなかった。


でも今はスマホの動画で見れるから、便利な世の中になったね。
12月20日、河浦囲碁部会の12月の月例会があったが、私は仕事で参加できなかった。が、夜の忘年会には出席させてもらった。例によって、居酒屋『ナベちゃん』で行われた。
今回は、牛深から、野田さんが初参加された。野田さんの乾杯の音頭で始まった。今回はオレ、嶋津先生、出永さんを除くとみんな役所出の方々で、碁より役所対抗のスポーツ関係の話に花が咲いた。

その後、ハイヤ節の話になり、溝口さんが野田さんに「ハイヤ節を唄ってくれ」と言い出された。「いや、ハイヤ節は難しくて誰でもは唄えんとさな」と返し、オレも「素人では、唄いきらんもんな」と言って、「磯節なら唄えるばってん」と言ったら、「ぜひ、唄ってくれー」と言われたが、まだ素面だったので、断ったのだが、一発唄ってみても良かったかなァーと後で思った。

最後に五段以下の人達は、皆、来年から一段昇段することが決まった。これからも段に恥じないよう精進されることを切望します。
12月24日、市民病院の整形に2度目の水を抜きに行く。この頃は疲れがピークに差し掛かり、朝起きるのも嫌になって来た。
12月29日、燻製機の中の火を消した時はホッとした。注文の品は全部発送してしまい。売り損なうことはなかった。
こうして年末の戦いは無事終わった。みんな、よく頑張った。来年は機械、機具の異常の無いことを祈る。
2024年12月31日
年末かく戦えり(前編)
♪好きよ~あなた~今でも~今でも、暦は~もう少しで今年もー終わりですネェ~♪
吉幾三の『雪国』だが、年末にはピッタリの唄だね。
11月5日、私は不覚にもコロナにかかってしまった。
ただの風邪だろうと思っていたが、「貝川さん、コロナです。そのまま車の中で待機してください。」と言って薬を取りに行った。先生から電話があり、薬代が18,000円しますと告げられた。「え、そんなに」「飲む飲まないはあなた次第です」と、「くそ、足元を見やがって、飲むヨ、飲めばいいんでしょう。その代わり、金はある時払いの催促なしだヨ。」「いいですよ」
散々文句は言ったけど、熱も出ず、2,3日で治った。
高い薬だけの事はあった。その2,3日後、嫁と長男にうつった。次男は1度かかったことがあるので陰性であった。その後家族の視線が鋭く、針のムシロであった。
11月18日、仕事を始めたら、魚肉採取機のベルトが切れた。切れるはずのないベルトがどうしてと思っていたら、2,3日前に、町工場の鉄工所で孔明管ナイフを研いでもらっていた。包丁の刃みたいに研いであり、「ワァーこんなに研がなくてもいいのになァー」とその時一抹の不安を覚えた。案の定、機会を廻した途端、ベルトが切れた。一瞬頭の中が真っ白になった。…が、すぐ最善策を考え、手を打たなければと我に返った。
メーカーに電話を入れ、今からローラーを持って来てくれないかと頼んだ。すると、「行くことはできますが、ローラーと部品と人件費で40万近くかかりますが、いいですか?」「金は何とかするから直ぐ発ってくれ!」「わかりました。今からすぐ出ます。」とすぐ対応してくれた。
福岡からだから、4時間半くらいで着くだろうと思って、みんなに4時まで自宅待機してもらった。
昔、ローラー交換を見ていて時間がかかることは知っていた。1時半ごろ到着された。すぐ機械の解体に入った。



流石本職だ。手際が良い。2時間はかからなかった。そこに町工場の人が来て、ナイフの研ぎ方が逆との指摘を受けた。
4時にみんなに召集をかけ、仕事を始めた。
魚肉を取った後、機械を洗っていたら、3cmくらいの部品が落ちていた。公志が来て、「これが落ちてた」と見せた。「あ、これは歯車を留めるピンじゃないか。ハハーン、留め忘れたなァ」と思い、すぐTELを入れた。「今どこら辺ですか」「ここは河浦って書いてあります。」「実は3cmくらいのスッピが落ちていますが、歯車を留めるピンじゃないですか。」と言うと、「アッそうです。すぐ引き返します。」と言って、帰って来た。
辺りは薄暗くなっていた。

また1から分解して歯車にはめ込んだ。帰る時は、7時を過ぎていた。
「ま、ローラーもすり減っていたのでそろそろ替え時かなー」と思っていたので、良かったかもしれない。でもこの金のない時、これは痛かった。
11月30日、牛深では『あかね市』、人吉では相良村温泉センターのイベントがあった。二手に分かれ、人吉には長男1人で行った。金曜日の早朝、芝生広場を通ったら、我が家のテントだけが、昨夜の風でつぶれていた。「アリャ、何でうちのテントだけ!嫌な予感、みんな貝川蒲鉾店は来年を待たずもう潰れている。」と思ったに違いない。
あかね市会場では、嫁と次男が頑張ってくれた。幸い天候にも恵まれ、お客さんも多かった。「テレビ見ました」「テレビ出とらしたですね」と言うお客さんが来て、次々に買って行って下さった。有難い事だ。途中、会場の様子を見に行ったら、鯛釣り会場の上を天草中のトンビが集まって来ているみたいで、ヒッチコック「鳥」を思わせる光景だった。

12時過ぎ人吉から電話が入る。「ほぼ完売で、1人勝ち」との朗報が…「良かった。行った甲斐があった。」
2日目はツムギ達も応援に来てくれた。
白バイにも乗ってご満悦だった。

真珠湾攻撃じゃないが、この2日間で久々の大戦果を挙げた。人吉が売れたのが嬉しい誤算だった。
テレビの影響もあったのだろう。英太郎有難う。次回後編へ
吉幾三の『雪国』だが、年末にはピッタリの唄だね。
11月5日、私は不覚にもコロナにかかってしまった。
ただの風邪だろうと思っていたが、「貝川さん、コロナです。そのまま車の中で待機してください。」と言って薬を取りに行った。先生から電話があり、薬代が18,000円しますと告げられた。「え、そんなに」「飲む飲まないはあなた次第です」と、「くそ、足元を見やがって、飲むヨ、飲めばいいんでしょう。その代わり、金はある時払いの催促なしだヨ。」「いいですよ」
散々文句は言ったけど、熱も出ず、2,3日で治った。
高い薬だけの事はあった。その2,3日後、嫁と長男にうつった。次男は1度かかったことがあるので陰性であった。その後家族の視線が鋭く、針のムシロであった。
11月18日、仕事を始めたら、魚肉採取機のベルトが切れた。切れるはずのないベルトがどうしてと思っていたら、2,3日前に、町工場の鉄工所で孔明管ナイフを研いでもらっていた。包丁の刃みたいに研いであり、「ワァーこんなに研がなくてもいいのになァー」とその時一抹の不安を覚えた。案の定、機会を廻した途端、ベルトが切れた。一瞬頭の中が真っ白になった。…が、すぐ最善策を考え、手を打たなければと我に返った。
メーカーに電話を入れ、今からローラーを持って来てくれないかと頼んだ。すると、「行くことはできますが、ローラーと部品と人件費で40万近くかかりますが、いいですか?」「金は何とかするから直ぐ発ってくれ!」「わかりました。今からすぐ出ます。」とすぐ対応してくれた。
福岡からだから、4時間半くらいで着くだろうと思って、みんなに4時まで自宅待機してもらった。
昔、ローラー交換を見ていて時間がかかることは知っていた。1時半ごろ到着された。すぐ機械の解体に入った。



流石本職だ。手際が良い。2時間はかからなかった。そこに町工場の人が来て、ナイフの研ぎ方が逆との指摘を受けた。
4時にみんなに召集をかけ、仕事を始めた。
魚肉を取った後、機械を洗っていたら、3cmくらいの部品が落ちていた。公志が来て、「これが落ちてた」と見せた。「あ、これは歯車を留めるピンじゃないか。ハハーン、留め忘れたなァ」と思い、すぐTELを入れた。「今どこら辺ですか」「ここは河浦って書いてあります。」「実は3cmくらいのスッピが落ちていますが、歯車を留めるピンじゃないですか。」と言うと、「アッそうです。すぐ引き返します。」と言って、帰って来た。
辺りは薄暗くなっていた。

また1から分解して歯車にはめ込んだ。帰る時は、7時を過ぎていた。
「ま、ローラーもすり減っていたのでそろそろ替え時かなー」と思っていたので、良かったかもしれない。でもこの金のない時、これは痛かった。
11月30日、牛深では『あかね市』、人吉では相良村温泉センターのイベントがあった。二手に分かれ、人吉には長男1人で行った。金曜日の早朝、芝生広場を通ったら、我が家のテントだけが、昨夜の風でつぶれていた。「アリャ、何でうちのテントだけ!嫌な予感、みんな貝川蒲鉾店は来年を待たずもう潰れている。」と思ったに違いない。
あかね市会場では、嫁と次男が頑張ってくれた。幸い天候にも恵まれ、お客さんも多かった。「テレビ見ました」「テレビ出とらしたですね」と言うお客さんが来て、次々に買って行って下さった。有難い事だ。途中、会場の様子を見に行ったら、鯛釣り会場の上を天草中のトンビが集まって来ているみたいで、ヒッチコック「鳥」を思わせる光景だった。

12時過ぎ人吉から電話が入る。「ほぼ完売で、1人勝ち」との朗報が…「良かった。行った甲斐があった。」
2日目はツムギ達も応援に来てくれた。
白バイにも乗ってご満悦だった。

真珠湾攻撃じゃないが、この2日間で久々の大戦果を挙げた。人吉が売れたのが嬉しい誤算だった。
テレビの影響もあったのだろう。英太郎有難う。次回後編へ
2024年11月14日
緊急告知
明日、11月15日午前9時50分から、TKUの『英太郎のかたらんね』で貝川蒲鉾店が紹介されます。

お時間がございましたら、見て下さい。

お時間がございましたら、見て下さい。
2024年11月07日
祝七五三
♪ほんのー小さな出来事に、愛は傷ついて~♪
財津和夫の『サボテンの花』の一節だが、我が家には「ハイビスカスの花」が今年も咲いた。

植木鉢は小さいが、大輪の花を咲かせた。
これといって手入れもしないのに、毎年楽しませてくれる。感心なものだ。
10月25日、河浦の櫻坂碁会所の月例会があった。今回も10名で熱戦が繰り広げられた。

今回は、野田さん、小川さん、嶋津さんの六段連中に勝ち、二段の出永さんにも勝ち、4連勝で勝ち上がった。
最後の相手がいない。久保さんがいたのだが、1勝3敗で、権利がないが、誰も相手がいないので、久保さんと打つ羽目になった。
相手は勝敗には関係ないが、オレは全勝がかかっている大一番だ。
力が入らない訳がない。序盤やりそこなって、大石がやられたと思ったが、セキにもっていき、試合は振り出しに戻った。ホッとしたのだろう。緩手を打ってしまったために、久保さんのゲタを見落としていた。一手バッタリで負けてしまった。とんだ伏兵がいたものだ。
結局4勝1敗が3人いて、点数で私は3位になってしまった。
10月27日、久玉の明石沖に、豪華客船が泊まっていた。

日本丸以来だろう。ああいう船に乗って旅するのは夢のまた夢だろう。
10月20日、恐竜のタマゴを新商品として、御所浦の『しおさい館』に置いてもらった。一週間過ぎたら追加注文が来た。

少しは期待持てるかなァー。
11月2日、ツムギの七五三のお宮参りだった。1日の夜中から明方にかけて、温帯低気圧になった台風21号の影響で「夜来風雨の声、花落ちること知る多少」だった。嗚呼、今日に限ってこんな天気になろうとは無事にお宮参りできるのだろうか。すると明け方には雨も小降りになり、傘まではいらないようだ。ツムギたちは、写真館に行き、記念写真をお宮参りの前に撮って来たらしい。


着物の姿は可愛いネ~。
11時がお宮参りの時間だったので、我々も八幡宮に行った。するとそこには洋服姿のツムギが居た。


「ありゃ、着物じゃなかったのかなぁ。」すると、「貸衣装なので、雨に濡らしたら面倒だ。」という事だった。「納得」
洋服は洋服で可愛いじゃないか。みんなで中に入り、お祓いを受けた。




最後宮司さんから、「千歳飴」をもらい、ご満悦だった。みんなで記念写真を撮った。
夜は海彩館で食事会をした。ツムギが我々が座っている所を見つけ急いで走って来た。刺身はあらかじめ注文していたので、みんなで乾杯した。

ツムギもこの頃は海彩館も慣れて来たみたいで、今日の主役が乾杯の音頭をとった。なかなかツムギとは会わないので、食べるのを忘れ、一挙一動に見入っていた。


孫はどうしてこんなに可愛いのだろうか、この頃はまた一段とおせおせして来た。これからのツムギの成長が楽しみだ。
私も古希を過ぎて、早3年。古希になったら、体がコキコキと酒と薬をこうごうに飲み、会社の為に、手となり足となり、クビになり、3人集まれば病気の話、さっき言ったことを忘れ、言おうとしたことも忘れ、忘れたことも忘れ、うるんだ瞳に輝く目やに。
昔老人を笑って来たバツだ。若者よ老人を笑うなかれ、いつか通る道だ。
財津和夫の『サボテンの花』の一節だが、我が家には「ハイビスカスの花」が今年も咲いた。

植木鉢は小さいが、大輪の花を咲かせた。
これといって手入れもしないのに、毎年楽しませてくれる。感心なものだ。
10月25日、河浦の櫻坂碁会所の月例会があった。今回も10名で熱戦が繰り広げられた。

今回は、野田さん、小川さん、嶋津さんの六段連中に勝ち、二段の出永さんにも勝ち、4連勝で勝ち上がった。
最後の相手がいない。久保さんがいたのだが、1勝3敗で、権利がないが、誰も相手がいないので、久保さんと打つ羽目になった。
相手は勝敗には関係ないが、オレは全勝がかかっている大一番だ。
力が入らない訳がない。序盤やりそこなって、大石がやられたと思ったが、セキにもっていき、試合は振り出しに戻った。ホッとしたのだろう。緩手を打ってしまったために、久保さんのゲタを見落としていた。一手バッタリで負けてしまった。とんだ伏兵がいたものだ。
結局4勝1敗が3人いて、点数で私は3位になってしまった。
10月27日、久玉の明石沖に、豪華客船が泊まっていた。

日本丸以来だろう。ああいう船に乗って旅するのは夢のまた夢だろう。
10月20日、恐竜のタマゴを新商品として、御所浦の『しおさい館』に置いてもらった。一週間過ぎたら追加注文が来た。

少しは期待持てるかなァー。
11月2日、ツムギの七五三のお宮参りだった。1日の夜中から明方にかけて、温帯低気圧になった台風21号の影響で「夜来風雨の声、花落ちること知る多少」だった。嗚呼、今日に限ってこんな天気になろうとは無事にお宮参りできるのだろうか。すると明け方には雨も小降りになり、傘まではいらないようだ。ツムギたちは、写真館に行き、記念写真をお宮参りの前に撮って来たらしい。


着物の姿は可愛いネ~。
11時がお宮参りの時間だったので、我々も八幡宮に行った。するとそこには洋服姿のツムギが居た。


「ありゃ、着物じゃなかったのかなぁ。」すると、「貸衣装なので、雨に濡らしたら面倒だ。」という事だった。「納得」
洋服は洋服で可愛いじゃないか。みんなで中に入り、お祓いを受けた。




最後宮司さんから、「千歳飴」をもらい、ご満悦だった。みんなで記念写真を撮った。
夜は海彩館で食事会をした。ツムギが我々が座っている所を見つけ急いで走って来た。刺身はあらかじめ注文していたので、みんなで乾杯した。

ツムギもこの頃は海彩館も慣れて来たみたいで、今日の主役が乾杯の音頭をとった。なかなかツムギとは会わないので、食べるのを忘れ、一挙一動に見入っていた。


孫はどうしてこんなに可愛いのだろうか、この頃はまた一段とおせおせして来た。これからのツムギの成長が楽しみだ。
私も古希を過ぎて、早3年。古希になったら、体がコキコキと酒と薬をこうごうに飲み、会社の為に、手となり足となり、クビになり、3人集まれば病気の話、さっき言ったことを忘れ、言おうとしたことも忘れ、忘れたことも忘れ、うるんだ瞳に輝く目やに。
昔老人を笑って来たバツだ。若者よ老人を笑うなかれ、いつか通る道だ。
2024年10月03日
恐竜の島、御所浦
♪今はもう秋、誰もいない海、知らん顔して、人が行き過ぎても♪
この曲は、50年前のトワ・エ・モアの曲であるが、昔は秋と言えば情緒があり、風情があった。野に咲く花々で四季が感じ取れた。
今はどうだろう。酷暑の中で仕事に追われ、熱中症と戦い、家路について、島美人のロックをあおり、眠りにつくだけの生活だ。
花をめでる暇もない。哀れと言うもなかなか愚かなり。
9月27日、櫻坂碁会所の9月の月例会があった。
10名の参加者で熱戦が繰り広げられた。

4回戦目で強敵、丸山さんと当たった。最初左上で私の石が取られてしまった。次は丸山さんの右上の石が取られてしまった。中央の大石の生死をかけて、一進一退の攻防が続いた。その時、横から助言する人がいた。あってはならぬ事である。江戸時代なら刀で切り捨て御免のところだ。私の一手負けで幕は下りた。
5回戦目は、正光寺のご住職だった。4戦全勝で来ておられる。終盤戦で私の大石が死んでしまったのだが、コウが発生してコウに負けると住職の負けになることになるので、どちらも生き生きで勝負は終わった。並べて、持碁(引き分け)だったが、私の白番だったので、コミの6目半勝ちになった。それでも4勝1敗でご住職の優勝が決まった。先々月は私、先月は小川床屋さん、今月は嶋津さんと、牛深勢が優勝している。河浦勢も来月はぜひ頑張ってもらいたい。
帰りに嶋津ご住職から、天草酒造の瑠璃の香と缶ビール(500ml)6本、缶ジュース1ダースもらった。


いつもいつも頂いてばかりで感謝しても感謝しきれない。こういう事なら、負けて全勝優勝させたらよかった。オレも無粋な男よなァー
9月13日に会議所で事業承継の話し合いがあった。
その中で、「貝川さんが作っておられるくんせい玉子を恐竜のタマゴとして売って見たらどうだろう。というのがこの前、御所浦の恐竜博物館に行った時、グッズはいっぱいあるが、恐竜のタマゴは無かった。そこで貝川さんのくんせい玉子を思い出した。」という事だった。
「それは面白い。やりましょう。」翌日、丸山さんに電話し、御所浦の物産館の電話番号を調べてもらった。
『しおさい館』という物産館で、社長さんは女性の方だった。
「実はくんせい玉子を作っていますが、今度、恐竜のタマゴとしてパッケージを変えて売りたいと思っていますので、そこに置いてもらえないでしょうか。」と言った。「それは良いですね。ぜひ売らせてください。」との事だった。
「蒲鉾も持っておられるなら、蒲鉾も置きますので、サンプルを送って下さい。」
「ウワー、話がとんとん拍子に進んでいくなぁ、鉄は熱いうちに打て」すぐデザイン会社にパッケージを頼んだ。
9月28日、前日に『しおさい館』にアポを取り、公志と御所浦に向かうことになった。
朝8時10分に牛深を出て、9時には棚底港に着いた。
9時10分の船があり、切符を買ってすぐ乗り込んだ。すぐ船は出港した。「天気晴朗なれど風強し」途中天草富士も見えた。


横浦、与一ヶ浦に寄港し、御所浦に着いた。約35分位だった。
桟橋を登ると目の前に『しおさい館』その後に恐竜博物館があった。



約束の時間より1時間早く着いたが、社長さんはまだ来ておられなかった。
店内を見学しながら、社長さんが来られるのを待った。
そしたら、店員さんがアイスコーヒーを持って来られ、「社長はもうすぐ来られるそうですので、コーヒーでも飲んで待ってて下さい。」との事だった。
やがて来られ、名刺交換の後、商談に入った。そして聞いてみた。「社長さん、私を知っておられると言われましたけど、どっかでお会いしましたかね?」「よく、とれたて市場で店頭販売しておられたでしょう。その頃から知っています。」との事だった。その日は蒲鉾も4種類持って来ていたので、すぐ陳列棚に並べてくださった。恐竜のタマゴはパッケージが出来てからということで、後日になった。
次の船までは少し時間があったので、博物館を少し見学しに行った。


うだるような暑さはなくなり、日も短くなり肌持ちも良くなった。
秋の花の代表に「秋桜(コスモス)」がある。山口百恵の歌でも有名である。「だがそれ以外のコスモスの歌を知ってるかい」事情通「へー他にもあるの?」「あるとも!」「じゃ唄ってみろよ。だけど『へちまの唄』のような唄は歌わないでくれよ。がっかりするからなぁ」「大丈夫だ」「じゃ唄ってみれば」「コスモス亀よー亀さんよ~世界の内でお前ほど~」
事情通「あァー聞くんじゃなかった。お前さんはいつまでたっても馬鹿だね~お前さんのことを近所の小学生が花言葉で唄っているよ。」
「へーどんな花言葉だ」
「いつもお金が梨の花、仕事もなくてヒマワリで顔も洗わずクロカッス。風呂にも入らず金もくせい。」
「よせやい!」
この曲は、50年前のトワ・エ・モアの曲であるが、昔は秋と言えば情緒があり、風情があった。野に咲く花々で四季が感じ取れた。
今はどうだろう。酷暑の中で仕事に追われ、熱中症と戦い、家路について、島美人のロックをあおり、眠りにつくだけの生活だ。
花をめでる暇もない。哀れと言うもなかなか愚かなり。
9月27日、櫻坂碁会所の9月の月例会があった。
10名の参加者で熱戦が繰り広げられた。

4回戦目で強敵、丸山さんと当たった。最初左上で私の石が取られてしまった。次は丸山さんの右上の石が取られてしまった。中央の大石の生死をかけて、一進一退の攻防が続いた。その時、横から助言する人がいた。あってはならぬ事である。江戸時代なら刀で切り捨て御免のところだ。私の一手負けで幕は下りた。
5回戦目は、正光寺のご住職だった。4戦全勝で来ておられる。終盤戦で私の大石が死んでしまったのだが、コウが発生してコウに負けると住職の負けになることになるので、どちらも生き生きで勝負は終わった。並べて、持碁(引き分け)だったが、私の白番だったので、コミの6目半勝ちになった。それでも4勝1敗でご住職の優勝が決まった。先々月は私、先月は小川床屋さん、今月は嶋津さんと、牛深勢が優勝している。河浦勢も来月はぜひ頑張ってもらいたい。
帰りに嶋津ご住職から、天草酒造の瑠璃の香と缶ビール(500ml)6本、缶ジュース1ダースもらった。


いつもいつも頂いてばかりで感謝しても感謝しきれない。こういう事なら、負けて全勝優勝させたらよかった。オレも無粋な男よなァー
9月13日に会議所で事業承継の話し合いがあった。
その中で、「貝川さんが作っておられるくんせい玉子を恐竜のタマゴとして売って見たらどうだろう。というのがこの前、御所浦の恐竜博物館に行った時、グッズはいっぱいあるが、恐竜のタマゴは無かった。そこで貝川さんのくんせい玉子を思い出した。」という事だった。
「それは面白い。やりましょう。」翌日、丸山さんに電話し、御所浦の物産館の電話番号を調べてもらった。
『しおさい館』という物産館で、社長さんは女性の方だった。
「実はくんせい玉子を作っていますが、今度、恐竜のタマゴとしてパッケージを変えて売りたいと思っていますので、そこに置いてもらえないでしょうか。」と言った。「それは良いですね。ぜひ売らせてください。」との事だった。
「蒲鉾も持っておられるなら、蒲鉾も置きますので、サンプルを送って下さい。」
「ウワー、話がとんとん拍子に進んでいくなぁ、鉄は熱いうちに打て」すぐデザイン会社にパッケージを頼んだ。
9月28日、前日に『しおさい館』にアポを取り、公志と御所浦に向かうことになった。
朝8時10分に牛深を出て、9時には棚底港に着いた。
9時10分の船があり、切符を買ってすぐ乗り込んだ。すぐ船は出港した。「天気晴朗なれど風強し」途中天草富士も見えた。


横浦、与一ヶ浦に寄港し、御所浦に着いた。約35分位だった。
桟橋を登ると目の前に『しおさい館』その後に恐竜博物館があった。



約束の時間より1時間早く着いたが、社長さんはまだ来ておられなかった。
店内を見学しながら、社長さんが来られるのを待った。
そしたら、店員さんがアイスコーヒーを持って来られ、「社長はもうすぐ来られるそうですので、コーヒーでも飲んで待ってて下さい。」との事だった。
やがて来られ、名刺交換の後、商談に入った。そして聞いてみた。「社長さん、私を知っておられると言われましたけど、どっかでお会いしましたかね?」「よく、とれたて市場で店頭販売しておられたでしょう。その頃から知っています。」との事だった。その日は蒲鉾も4種類持って来ていたので、すぐ陳列棚に並べてくださった。恐竜のタマゴはパッケージが出来てからということで、後日になった。
次の船までは少し時間があったので、博物館を少し見学しに行った。


うだるような暑さはなくなり、日も短くなり肌持ちも良くなった。
秋の花の代表に「秋桜(コスモス)」がある。山口百恵の歌でも有名である。「だがそれ以外のコスモスの歌を知ってるかい」事情通「へー他にもあるの?」「あるとも!」「じゃ唄ってみろよ。だけど『へちまの唄』のような唄は歌わないでくれよ。がっかりするからなぁ」「大丈夫だ」「じゃ唄ってみれば」「コスモス亀よー亀さんよ~世界の内でお前ほど~」
事情通「あァー聞くんじゃなかった。お前さんはいつまでたっても馬鹿だね~お前さんのことを近所の小学生が花言葉で唄っているよ。」
「へーどんな花言葉だ」
「いつもお金が梨の花、仕事もなくてヒマワリで顔も洗わずクロカッス。風呂にも入らず金もくせい。」
「よせやい!」
2024年09月21日
座って居る場合じゃないぞ!
♪ここに居ると旅のハガキもらったとき~胸の奥で何か急にはじけた様~一夜だけの旅の仕度、すぐ荷造り熱い胸に飛び込みーたい~私だった~♪
♪十九半ばの恋知らず、十九半ばで恋を知り~あなた~あなたたずねて~行く旅は~夏から秋への~能登半島ぉ~♪

能登半島の写真が無いので、唐隈灯台で我慢してネ。
この歌は、石川さゆりの「能登半島」という50年前の曲である。
女心を如実に表し、旅情豊かないい曲で、私の好きな曲の一つだ。生きている間に、青春の十八列車で、能登半島追憶の旅をしようと思っていた。
石川県の地酒を片手に、海の幸、山の幸を堪能しようと淡い考えでいたのだが、今年の正月、能登半島地震が起きてしまった。復興には、十数年はかかるだろ。それまで生きていないだろ。「嗚呼、やんぬるかな!旅先から一度、彼女にハガキを出してみたかったなぁー」
事情通の話「あんたのことだ、どうせ旅費が無くなったから持って来てくれだろう。」それを言っちゃおしまいよ!身も蓋もないじゃないか。
9月6日、櫻坂碁会所月例会があった。本当は8月30日だったのだが、台風10号が来たので、中止になった。
会場へ行く車の中で、小川床屋さんに「小川さん、今年は優勝から遠のいていますね。今日あたり、頑張ってみらっさんですか。」と檄を入れた。
9名の参加者で、熱戦が繰り広げられた。


私は2回戦で小川さんとあたった。「小川さんに勝てばひょっとしたらと、思いながら打ったら負けてしまった。」
3回戦は小川さん対丸山さんの2勝どうしの戦いになった。結果は丸山さんの勝ちに見えたが、小川さんが碁笥(ごけ)の蓋にある上げ石を並べていなかったので、それを並べたら、丸山さんの6目負けになってしまった。久々の殊勲かと思われたのだが、残念な一局だったに違いない。
その後は、俺に負け、あれよあれよと言う間に3連敗された。小川さんとの一戦がよほどこたえたのだろう。次回に期待しましょう。
小川さんの全勝優勝で幕は下りた。
帰りの車の中で、小川さんが、「朝、あんたに檄を入れられたで優勝できたかもしれない」とお礼を言われた。「いやー実力ですヨ」
9月の月例会は、27日になっている。謹ちゃん、久保さん、丸山さんにぜひ頑張ってほしい。
「座って居る場合じゃないぞ!」
結婚式の最中に起きた魂の敬礼の理由とは。
ある自衛官の結婚披露宴にて、海上自衛隊の新郎の参加者には、制服を着た同僚や上司が数人参列していた。
式の途中、新郎の祖父から挨拶があった。
その話の中で自信が海軍に所属していたこと。「孫が艦に乗り、国を守る仕事に就いたことを誇りに思う。」と語った。
さらに新郎の祖父は「我々の世代が不甲斐ないばかりに今の船乗りたちには迷惑をかけてしまっている。」などと語った。
酒も入り、最初は話半分だった新郎側の出席者たちは、気付けば身じろぎ一つせず、神妙に聞き入っていた。
挨拶が終わると、出席者の一人が新郎に聞いた。
「お祖父様は何に乗っておられたのだ。」新郎は胸を張って答えた「お祖父は、ヤマトに乗っていました。」返答を聞いた瞬間、海自関係者は凄まじい勢いで立ち上がり、新郎の祖父へ直立不動の敬礼を送った。
それに対し、新郎の祖父も見事な答礼を返した。
それを見た他の参列者は言葉を発することが出来ず、気づけばただただ拍手を送っていたという。
久々のいい話だった。これを書いている時、なぜか涙が出てきて仕方がなかった。
東シナ海や、南西諸島付近がにわかにきな臭くなってきている。海自には旭日旗を揚げて国防に頑張ってもらいたい。
追伸
このブログを書いた後、石川県に線状降水帯の被害が出たとニュースで聞いた。
もうブログを書いてしまった後だ。良かれと思って書いたブログだったので、ひんしゅくを買うようで申し訳ないが、そのままブログは掲載させてもらいます。
♪十九半ばの恋知らず、十九半ばで恋を知り~あなた~あなたたずねて~行く旅は~夏から秋への~能登半島ぉ~♪

能登半島の写真が無いので、唐隈灯台で我慢してネ。
この歌は、石川さゆりの「能登半島」という50年前の曲である。
女心を如実に表し、旅情豊かないい曲で、私の好きな曲の一つだ。生きている間に、青春の十八列車で、能登半島追憶の旅をしようと思っていた。
石川県の地酒を片手に、海の幸、山の幸を堪能しようと淡い考えでいたのだが、今年の正月、能登半島地震が起きてしまった。復興には、十数年はかかるだろ。それまで生きていないだろ。「嗚呼、やんぬるかな!旅先から一度、彼女にハガキを出してみたかったなぁー」
事情通の話「あんたのことだ、どうせ旅費が無くなったから持って来てくれだろう。」それを言っちゃおしまいよ!身も蓋もないじゃないか。
9月6日、櫻坂碁会所月例会があった。本当は8月30日だったのだが、台風10号が来たので、中止になった。
会場へ行く車の中で、小川床屋さんに「小川さん、今年は優勝から遠のいていますね。今日あたり、頑張ってみらっさんですか。」と檄を入れた。
9名の参加者で、熱戦が繰り広げられた。


私は2回戦で小川さんとあたった。「小川さんに勝てばひょっとしたらと、思いながら打ったら負けてしまった。」
3回戦は小川さん対丸山さんの2勝どうしの戦いになった。結果は丸山さんの勝ちに見えたが、小川さんが碁笥(ごけ)の蓋にある上げ石を並べていなかったので、それを並べたら、丸山さんの6目負けになってしまった。久々の殊勲かと思われたのだが、残念な一局だったに違いない。
その後は、俺に負け、あれよあれよと言う間に3連敗された。小川さんとの一戦がよほどこたえたのだろう。次回に期待しましょう。
小川さんの全勝優勝で幕は下りた。
帰りの車の中で、小川さんが、「朝、あんたに檄を入れられたで優勝できたかもしれない」とお礼を言われた。「いやー実力ですヨ」
9月の月例会は、27日になっている。謹ちゃん、久保さん、丸山さんにぜひ頑張ってほしい。
「座って居る場合じゃないぞ!」
結婚式の最中に起きた魂の敬礼の理由とは。
ある自衛官の結婚披露宴にて、海上自衛隊の新郎の参加者には、制服を着た同僚や上司が数人参列していた。
式の途中、新郎の祖父から挨拶があった。
その話の中で自信が海軍に所属していたこと。「孫が艦に乗り、国を守る仕事に就いたことを誇りに思う。」と語った。
さらに新郎の祖父は「我々の世代が不甲斐ないばかりに今の船乗りたちには迷惑をかけてしまっている。」などと語った。
酒も入り、最初は話半分だった新郎側の出席者たちは、気付けば身じろぎ一つせず、神妙に聞き入っていた。
挨拶が終わると、出席者の一人が新郎に聞いた。
「お祖父様は何に乗っておられたのだ。」新郎は胸を張って答えた「お祖父は、ヤマトに乗っていました。」返答を聞いた瞬間、海自関係者は凄まじい勢いで立ち上がり、新郎の祖父へ直立不動の敬礼を送った。
それに対し、新郎の祖父も見事な答礼を返した。
それを見た他の参列者は言葉を発することが出来ず、気づけばただただ拍手を送っていたという。
久々のいい話だった。これを書いている時、なぜか涙が出てきて仕方がなかった。
東シナ海や、南西諸島付近がにわかにきな臭くなってきている。海自には旭日旗を揚げて国防に頑張ってもらいたい。
追伸
このブログを書いた後、石川県に線状降水帯の被害が出たとニュースで聞いた。
もうブログを書いてしまった後だ。良かれと思って書いたブログだったので、ひんしゅくを買うようで申し訳ないが、そのままブログは掲載させてもらいます。
2024年08月29日
職場体験と料理研究家
♪守りもいや~が~る盆から先にや~雪もちら~つくし、子も泣く~し♪
この歌は、赤い鳥の「竹田の子守歌」である。若い頃はギターで良く唄っていた。
この夏は、桃、メロン、ソーメン、ビール、ジュースなどなどと、各方面からお中元の品を頂き、この場を借りて、厚くお礼申し上げます。


我が家の冷蔵庫はまだ若干のゆとりがあります。
先月中旬、民宿の大黒屋さんから、相談を受けた。
「社長さんに頼みごとがあるのですけど」「金以外の事なら何でも」
「実は東京から学生さんが来て、牛深で職場体験をしたいという事で貝川さんの所で体験させてもらえないでしょうか。」という事だった。
「え、体験学習?このクソ暑いのに」と思ったが、日頃お世話になっている大黒屋さんだ、困っておられるようだったので、承諾した。
後日、某大学の担当者からTELが来て、リモートで話すことになった。このプロジェクトの趣旨、スケジュールなどを話し合った。
来る学生は高校生2人、中学生2人、それに引率者2人の6名、このプロジェクトは数年前から始まったそうで、昨年は北海道だったそうだ。今年は鹿児島、天草、長崎に決まったそうだ。これに参加する学生は募集をかけ、面接を行い、それで合格した人が選ばれる。選ばれた人は当日まで、どこの誰が来るか知らされていないもちろんどこへ行くかもだ。
「今の子供たちは勉強ばかりで、世の中のことがあまりわかってない。職場の人たち一緒に働き、働きながらその土地、文化、言葉、歴史を学んでいく。それに労働の厳しさも」というのが、趣旨らしい。
「だから、ビシバシ鍛えて下さい」と。
しばらくして、作業用長靴が送られて来た。日程が8月21日、22日の2日間に決まった。
数日して、担当者の方から、某大学スタッフ、カメラマン、NHKでおなじみの料理研究家の人も是非くんせい蒲鉾を食べてみたいと言って、同行されることになったそうだ。「望むところ、相手にとって不足無し!」不思議だ。もうそろそろ閉店しようと思っている時、次から次に話が来る。オレを閉店させないために嫌がらせをしているに違いない。
8月21日、1時に公志が大黒屋まで迎えに行った。
工場に着いたら挨拶無しですぐに長靴に履き替えた。公志、松山さんの指示の下、アジの頭むしりに入った。最初はおそるおそるだったけど、女の子2人はすぐに要領を飲み込んだ。

男の子たちには、魚を洗ってもらった。これもすぐうまくなった。
その後、魚の身を水で晒した。水を桶に入れるにもバケツリレーで、なかなかチームワークがとれていて好感が持てた。

最後に床をデッキブラシでこする姿はなかなか様になっていた。

4時前には作業は終了した。5時からはシルバー人材センターの人たちと草むしり作業が待っている。その晩は夕食の後、大黒屋の三階の大広間で桃の会の唄い手、踊り手と三味線、太鼓でハイヤ節を披露した。
子供たちも一緒に踊り、大変喜んだそうだ。
こんなに迎えられたのは初めてだったとのことだった。
8月22日(2日目)、朝6時、充が大黒屋に迎えに行った。
皆にネット帽をかぶってもらい、トルトルでお互いの背中のゴミを取り、作業開始。臼の中の調味を始めていたら、料理研究家の人とそのスタッフが来られた。

公志が調味をしているの見て、あれは何を入れている、あれは何といろいろ質問された。それに答えながら、今度はこちらから尋ねた。
「あなたのお父さんは海軍の輜重兵(料理人)でしたか?」
「えっ、なぜ知っているんですか?」「いえね、私の従兄が海上自衛隊にいて、お父さんは海軍の料理長をしておられたようだ。だから聞いてみろ。と言ってたので。」「そうです。海軍の輜重兵でした。当時海軍は牛とか豚を食料として、軍艦の載せていて、各方面からお父さんの所へ料理を習いに来ていたらしいです。」
くんせいするまで時間があるので、一旦帰られた。
そして、摺りあがった蒲鉾を形成機に入れる。形成機のベルトから出てくる蒲鉾をセイロに並べるのだけど、長男が一人一人に手本を見せ、指導したのだが、すぐ並べられるようになった。

途中でチーズ入りの蒲鉾を作らせた。自分の好きなように作っていいと言って自由に作らせた。みんな楽しく作っていた。
11時半過ぎたので、ボイラーのスイッチを入れ、蒸し始めた。
蒸し上がった蒲鉾を別のセイロに移すのだが、熱いからボールに水を入れ、指を冷やしながら、手際よく並べていた。

いよいよくんせいするのだが、トラブルが起きた。1回目の蒲鉾をくんせい機の中に入れてしまたので、松の木が窯の中でどう燃えているか、動画に撮ってもらった。ほんの数秒だっが、本来廻っているはずの観覧車が止まっている。「ヤバイ!」慌ててスイッチを入れた。長男がスイッチを入れるのを忘れていた。案の定一番下になっている蒲鉾が焦げていた。辺りに香ばしい香りがただよった。そこに料理研究家とそのスタッフが来られた。しばらくして一回目のくんせい蒲鉾が出来上がり、皆さんに切って食べてもらった。みんな美味しいおいしいと言って食べてくれた。
マヨネーズもサラの横に出して子供達にも食べさせたら、こちらがうまいと言ってくれた。その後、料理研究家の人と名刺交換し、お礼に自分が出しておられる本をサイン入りでプレゼントしてくれた。


子供たちは3時のバスで本渡に向かうことになったので、2時30分で作業は終わり、みんなで記念写真を撮って工場を離れることになった。

本渡では御所浦に行ってるチームと合流することになっていた。
翌日は、キリシタン館と西海岸の世界遺産を見て、「望洋閣」で一泊して長崎に渡るらしい。
8月23日は次男の誕生日だった。おめでとうとお疲れさまでしたで祝杯を挙げた。

無事何事もなく終わってホッとした。
この歌は、赤い鳥の「竹田の子守歌」である。若い頃はギターで良く唄っていた。
この夏は、桃、メロン、ソーメン、ビール、ジュースなどなどと、各方面からお中元の品を頂き、この場を借りて、厚くお礼申し上げます。


我が家の冷蔵庫はまだ若干のゆとりがあります。
先月中旬、民宿の大黒屋さんから、相談を受けた。
「社長さんに頼みごとがあるのですけど」「金以外の事なら何でも」
「実は東京から学生さんが来て、牛深で職場体験をしたいという事で貝川さんの所で体験させてもらえないでしょうか。」という事だった。
「え、体験学習?このクソ暑いのに」と思ったが、日頃お世話になっている大黒屋さんだ、困っておられるようだったので、承諾した。
後日、某大学の担当者からTELが来て、リモートで話すことになった。このプロジェクトの趣旨、スケジュールなどを話し合った。
来る学生は高校生2人、中学生2人、それに引率者2人の6名、このプロジェクトは数年前から始まったそうで、昨年は北海道だったそうだ。今年は鹿児島、天草、長崎に決まったそうだ。これに参加する学生は募集をかけ、面接を行い、それで合格した人が選ばれる。選ばれた人は当日まで、どこの誰が来るか知らされていないもちろんどこへ行くかもだ。
「今の子供たちは勉強ばかりで、世の中のことがあまりわかってない。職場の人たち一緒に働き、働きながらその土地、文化、言葉、歴史を学んでいく。それに労働の厳しさも」というのが、趣旨らしい。
「だから、ビシバシ鍛えて下さい」と。
しばらくして、作業用長靴が送られて来た。日程が8月21日、22日の2日間に決まった。
数日して、担当者の方から、某大学スタッフ、カメラマン、NHKでおなじみの料理研究家の人も是非くんせい蒲鉾を食べてみたいと言って、同行されることになったそうだ。「望むところ、相手にとって不足無し!」不思議だ。もうそろそろ閉店しようと思っている時、次から次に話が来る。オレを閉店させないために嫌がらせをしているに違いない。
8月21日、1時に公志が大黒屋まで迎えに行った。
工場に着いたら挨拶無しですぐに長靴に履き替えた。公志、松山さんの指示の下、アジの頭むしりに入った。最初はおそるおそるだったけど、女の子2人はすぐに要領を飲み込んだ。

男の子たちには、魚を洗ってもらった。これもすぐうまくなった。
その後、魚の身を水で晒した。水を桶に入れるにもバケツリレーで、なかなかチームワークがとれていて好感が持てた。

最後に床をデッキブラシでこする姿はなかなか様になっていた。

4時前には作業は終了した。5時からはシルバー人材センターの人たちと草むしり作業が待っている。その晩は夕食の後、大黒屋の三階の大広間で桃の会の唄い手、踊り手と三味線、太鼓でハイヤ節を披露した。
子供たちも一緒に踊り、大変喜んだそうだ。
こんなに迎えられたのは初めてだったとのことだった。
8月22日(2日目)、朝6時、充が大黒屋に迎えに行った。
皆にネット帽をかぶってもらい、トルトルでお互いの背中のゴミを取り、作業開始。臼の中の調味を始めていたら、料理研究家の人とそのスタッフが来られた。

公志が調味をしているの見て、あれは何を入れている、あれは何といろいろ質問された。それに答えながら、今度はこちらから尋ねた。
「あなたのお父さんは海軍の輜重兵(料理人)でしたか?」
「えっ、なぜ知っているんですか?」「いえね、私の従兄が海上自衛隊にいて、お父さんは海軍の料理長をしておられたようだ。だから聞いてみろ。と言ってたので。」「そうです。海軍の輜重兵でした。当時海軍は牛とか豚を食料として、軍艦の載せていて、各方面からお父さんの所へ料理を習いに来ていたらしいです。」
くんせいするまで時間があるので、一旦帰られた。
そして、摺りあがった蒲鉾を形成機に入れる。形成機のベルトから出てくる蒲鉾をセイロに並べるのだけど、長男が一人一人に手本を見せ、指導したのだが、すぐ並べられるようになった。

途中でチーズ入りの蒲鉾を作らせた。自分の好きなように作っていいと言って自由に作らせた。みんな楽しく作っていた。
11時半過ぎたので、ボイラーのスイッチを入れ、蒸し始めた。
蒸し上がった蒲鉾を別のセイロに移すのだが、熱いからボールに水を入れ、指を冷やしながら、手際よく並べていた。

いよいよくんせいするのだが、トラブルが起きた。1回目の蒲鉾をくんせい機の中に入れてしまたので、松の木が窯の中でどう燃えているか、動画に撮ってもらった。ほんの数秒だっが、本来廻っているはずの観覧車が止まっている。「ヤバイ!」慌ててスイッチを入れた。長男がスイッチを入れるのを忘れていた。案の定一番下になっている蒲鉾が焦げていた。辺りに香ばしい香りがただよった。そこに料理研究家とそのスタッフが来られた。しばらくして一回目のくんせい蒲鉾が出来上がり、皆さんに切って食べてもらった。みんな美味しいおいしいと言って食べてくれた。
マヨネーズもサラの横に出して子供達にも食べさせたら、こちらがうまいと言ってくれた。その後、料理研究家の人と名刺交換し、お礼に自分が出しておられる本をサイン入りでプレゼントしてくれた。


子供たちは3時のバスで本渡に向かうことになったので、2時30分で作業は終わり、みんなで記念写真を撮って工場を離れることになった。

本渡では御所浦に行ってるチームと合流することになっていた。
翌日は、キリシタン館と西海岸の世界遺産を見て、「望洋閣」で一泊して長崎に渡るらしい。
8月23日は次男の誕生日だった。おめでとうとお疲れさまでしたで祝杯を挙げた。

無事何事もなく終わってホッとした。
2024年08月25日
初盆と終戦の日
♪おどんみゃ盆ぎり盆ぎり、盆から先ゃおらんと~、盆が早よくりゃ早よもどぉ~る♪
8月15日、長島の義兄の嫁さんが今年4月に亡くなった。
だから今年は初盆だった。兄貴から提灯を立ててくれてと依頼があった。
嫁の実家にいる弟に電話をし、竹を切ってくれるよう頼んだ。12日、長男の充が軽トラで積みに行った。
15日早朝、墓に登った。長男、次男とオレとで組み立てた。
長島から兄とその子供の家族がフェリーで渡って来た。
まだ納骨が終わってなかったので、宮崎の清涼閣でお経をあげてもらい、その足で墓に行き、無事納骨することが出来た。
夜、墓に提灯を上げるのは、貝川家に任せ、午後のフェリーで帰って行った。
夕方5時になったので、「さぁー墓地墓地登るかぁー」と言って各車に分乗した。墓場は暑いだろうと覚悟はして行ったが、ちょうど木の影になり、割と風も吹いて涼しかった。墓場ではあまり写真は撮らないんだけど、兄貴のために撮った。すると写真にオレのおふくろの心霊写真が写っていた。


事情通の話。「オイ、オイ、よく見ろ。お前の嫁やないかぁ」
7時半になったので、撤収して帰途に着いた。
翌日の夕方、一杯やってると、左足のふくらはぎが痒くなったので、ムヒを塗った。そのうち治まるだろとほったらかしていた。
すると翌日の夕方、またかゆくなってきた。触ってみると、「水ぶくれ」が数か所できていた。

こりゃいかんと思って市民病院の深夜外来に電話を入れた。幸い公志が飲んでいなかったので、市民病院まで乗せていってくれた。
当直医は「麻酔科」の先生だった。
私は専門じゃないのでわかりませんが、多分虫刺されと思いますので、一応薬は出しときますので、月曜日でも皮膚科にかかって下さい。
「ありゃ、墓場で心霊写真と言ったので、バチがあたったかもしれない。」
月曜日、皮膚科に行った。盆明けだったので、患者さんがいっぱいいた。
「12時前に来ます」と受付を済ませ、工場へ帰った。
12時前に皮膚科に入り、待合室で待っていると、すぐ名前を呼ばれた。先生に足を見せ、写真も見せた。「アッこれは、やけど虫だ。どこか草むらに入らなかったァ?」と尋ねられたので、お盆の日墓場に3時間くらいいたことを白状した。「この虫の名前は、アオバアリガタハネカクシというのだけど、別名はやけど虫と言って刺されたところがやけどした時にできる水ぶくれに似ている所から、やけど虫と呼ばれるようになった。」という。
原因が分かればいい。飲み薬と塗薬をもらって帰った。
そして、8月15日は終戦の日。
早田ひなは、知覧特攻平和会館へ行ったのだろうか、中国メディアやSNSで騒がれている。
石川佳純と張本智和が五輪前に、東郷神社に参拝していたことが、掘り起こされ非難を浴びた。誹謗中傷するのはやめろ。国策に殉じられた方々を参拝してどこが悪い。外部は黙っとけ!
オレオレ詐欺、振り込め詐欺、平気で人を殺す世の中。産まれたての我が子に親は大きくなったらそうやって生きるのですよとは教えていないはず。靖国神社に参拝された90歳過ぎた戦争未亡人の方だろう。この人の詠んだ句に、「かくまでに醜き国となりたれば、捧げし人のただに惜しまる」がある。
平和の尊さを感じる一日だった。
♪おどんが打死(うちん)ちゅうて、誰が泣ゃてくりゃかー裏の松山ぁせみが鳴~く♪
8月15日、長島の義兄の嫁さんが今年4月に亡くなった。
だから今年は初盆だった。兄貴から提灯を立ててくれてと依頼があった。
嫁の実家にいる弟に電話をし、竹を切ってくれるよう頼んだ。12日、長男の充が軽トラで積みに行った。
15日早朝、墓に登った。長男、次男とオレとで組み立てた。
長島から兄とその子供の家族がフェリーで渡って来た。
まだ納骨が終わってなかったので、宮崎の清涼閣でお経をあげてもらい、その足で墓に行き、無事納骨することが出来た。
夜、墓に提灯を上げるのは、貝川家に任せ、午後のフェリーで帰って行った。
夕方5時になったので、「さぁー墓地墓地登るかぁー」と言って各車に分乗した。墓場は暑いだろうと覚悟はして行ったが、ちょうど木の影になり、割と風も吹いて涼しかった。墓場ではあまり写真は撮らないんだけど、兄貴のために撮った。すると写真にオレのおふくろの心霊写真が写っていた。


事情通の話。「オイ、オイ、よく見ろ。お前の嫁やないかぁ」
7時半になったので、撤収して帰途に着いた。
翌日の夕方、一杯やってると、左足のふくらはぎが痒くなったので、ムヒを塗った。そのうち治まるだろとほったらかしていた。
すると翌日の夕方、またかゆくなってきた。触ってみると、「水ぶくれ」が数か所できていた。

こりゃいかんと思って市民病院の深夜外来に電話を入れた。幸い公志が飲んでいなかったので、市民病院まで乗せていってくれた。
当直医は「麻酔科」の先生だった。
私は専門じゃないのでわかりませんが、多分虫刺されと思いますので、一応薬は出しときますので、月曜日でも皮膚科にかかって下さい。
「ありゃ、墓場で心霊写真と言ったので、バチがあたったかもしれない。」
月曜日、皮膚科に行った。盆明けだったので、患者さんがいっぱいいた。
「12時前に来ます」と受付を済ませ、工場へ帰った。
12時前に皮膚科に入り、待合室で待っていると、すぐ名前を呼ばれた。先生に足を見せ、写真も見せた。「アッこれは、やけど虫だ。どこか草むらに入らなかったァ?」と尋ねられたので、お盆の日墓場に3時間くらいいたことを白状した。「この虫の名前は、アオバアリガタハネカクシというのだけど、別名はやけど虫と言って刺されたところがやけどした時にできる水ぶくれに似ている所から、やけど虫と呼ばれるようになった。」という。
原因が分かればいい。飲み薬と塗薬をもらって帰った。
そして、8月15日は終戦の日。
早田ひなは、知覧特攻平和会館へ行ったのだろうか、中国メディアやSNSで騒がれている。
石川佳純と張本智和が五輪前に、東郷神社に参拝していたことが、掘り起こされ非難を浴びた。誹謗中傷するのはやめろ。国策に殉じられた方々を参拝してどこが悪い。外部は黙っとけ!
オレオレ詐欺、振り込め詐欺、平気で人を殺す世の中。産まれたての我が子に親は大きくなったらそうやって生きるのですよとは教えていないはず。靖国神社に参拝された90歳過ぎた戦争未亡人の方だろう。この人の詠んだ句に、「かくまでに醜き国となりたれば、捧げし人のただに惜しまる」がある。
平和の尊さを感じる一日だった。
♪おどんが打死(うちん)ちゅうて、誰が泣ゃてくりゃかー裏の松山ぁせみが鳴~く♪
2024年08月07日
旧友との再会
いつも小欄を見て下さっているブロガーの皆さん。
酷暑見舞い申し上げます。こう暑くては冒頭に唄う気にもなれない。
もう50年も前になるが、井上陽水の『少年時代』、吉田拓郎の『夏休み』などの歌詞にはさわやかな夏が感じられた。
今の夏はどうだろう。熱中症警戒アラートが発令されて、危険な暑さが毎日続いている。どうかご自愛を。
7月24日は、土用の丑の日だった。今年は鰻が食べられるのだろうか。鰻も高くなったからなァーと一抹の不安がよぎる。
帰宅して見ると、部屋の中に甘辛い香ばしい香りがただよっていた。
これはまさしく蒲焼きの香り。心の中で勝利の舞を踊った。すると鰻が「お上がんなさい。お上がんなさいよ!」と語りかけている声がするようだ。
はやる気持ちを抑えて、まずはサントリープレモルで喉を潤す。

それから一口はゆっくりと頬張る。「うまい!」これこれ、1年待った甲斐があった。
だが、一尾の鰻を3等分して食べるんだ。アッという間に無くなった。そういえば、公志は友達と本渡に行っているから、向うで夕飯は食べてくるかもしれない。そしたら、公志の分を一切れもらえるかもしれない。自分の顔が、ニンマリするのが分かった。すると「ただいまー」とドアを開けて公志が帰って来た。邪な考えは潰えたのだった。
7月26日、河浦の櫻坂碁会所の月例会が開催された。
参加者は11名であった。6月の優勝者は久保五段だった。久しぶりに河浦から優勝者が出たのは、久保会長の面目躍如だ。

7月はこの私が全勝で優勝した。私も久々の優勝だったので、非常に嬉しかった。

鰻の御利益があったかもしれない。
7月31日、熊本の亀井通産(株)の秋冬の展示商談会がグランメッセで行われた。朝五時に出発した。
会場に着いたら、入り口でネームプレートを渡された。
会場の配置図を見ながら。自分たちの場所へ向かった。
天草のコーナーがあった。天草から来ているのはうちだけだった。
公志は車を移動させに駐車場へ行った。一人で立っていたら、横から「貝川社長さんですか」と声をかけられ、振り向くと法被を着た人が近づいて来た。「そうですが?」「私は元天草の肥後リースに勤めていた尾上と申します。」「え、あの髪の毛を七三に分け、黒スーツの尾上さんですか?」「そうです。」ワァー何十年振りですね。私が一番会いたかった人だった。
私は10年前くらいから心臓と脳の手術をして、正月の年賀状を一切出さなくなった。それでも尾上さんからは、毎年年賀状を頂いていた。
とても律儀なひとだ。だから一度会って、釈明をし謝りたいとずっと思っていた。
こんな形で再会できるなんて本当に嬉しかった。尾上さんは、ブログを見て私のことはわかっていらっしゃった公志が記念に写真を撮ってくれた。

昼の弁当はとても豪華だった。ヒライの弁当のようだ。

天草のコーナーは出店者は誰も居なく、お客さんも誰もいない。

昼頃になると、ボチボチ人が寄りだした。

イケダ食品の鬼木さん。イオンの堀さん。亀井通産の人とそのバイヤーさんとかが、続々と来て、商品の説明に追われた。試食を食べさせたら、みんなうまいと言ってくれた。
なんか久しぶりに会う人ばかりで、まるで同窓会みたいだった。やっぱり商談会は、ただ展示するだけじゃなくて、食べさせてしっかり自社商品をアピールしないといけない。少し手応えを感じて帰って来た。
翌8月1日はツムギの3才の誕生日だった。




7月20日にリニューアルオープンした海彩館の大漁食堂アオサへ行くことにした。
午後6時予約だったので、5時半に家を出た。しばらくするとツムギ達も来た。
すぐオレの所に来て、誕生日に買ってもらったんだろう、ミッキーやミニーが描いてあるワンピースを見せに来た。
よっぽど嬉しかったんだろう、嫁と公志にも見せてご満悦だった。
皆で乾杯して食事に入ったのだが、早く食べ終わり、「公志、かくれんぼしよう」とか、「馬になって」とか、公志をお気に入りだ。この頃は「最初はグー、ジャンケンポン」を覚えみたいで、「じゃーじいちゃんとジャンケンしようか」と言って、五百円を出した。わざと負けてやろと思うのだが、最初はグーの後、パーを出してばっかりで、チョキを出していると、ずっと勝つので、最後グーを出して負けてやった。
家に帰るとケーキが用意されていた。ローソクが3本立っていて、1本目のローソクはすぐに消えたが、2本目、3本目は消えなかった。

まだ肺活量が弱いんだろう。無事行事は終わった。
後は、11月の七五三だ。それまで生きていなければいけない。
お国に捧げた体。暑いとかだるいとか、いざという時熱中症とか、コロナにかかったりしたら、天皇陛下に申し訳が立たない。日本男子がこれくらいの暑さに負けてたまるか、アァーそれにしても暑い!
酷暑見舞い申し上げます。こう暑くては冒頭に唄う気にもなれない。
もう50年も前になるが、井上陽水の『少年時代』、吉田拓郎の『夏休み』などの歌詞にはさわやかな夏が感じられた。
今の夏はどうだろう。熱中症警戒アラートが発令されて、危険な暑さが毎日続いている。どうかご自愛を。
7月24日は、土用の丑の日だった。今年は鰻が食べられるのだろうか。鰻も高くなったからなァーと一抹の不安がよぎる。
帰宅して見ると、部屋の中に甘辛い香ばしい香りがただよっていた。
これはまさしく蒲焼きの香り。心の中で勝利の舞を踊った。すると鰻が「お上がんなさい。お上がんなさいよ!」と語りかけている声がするようだ。
はやる気持ちを抑えて、まずはサントリープレモルで喉を潤す。

それから一口はゆっくりと頬張る。「うまい!」これこれ、1年待った甲斐があった。
だが、一尾の鰻を3等分して食べるんだ。アッという間に無くなった。そういえば、公志は友達と本渡に行っているから、向うで夕飯は食べてくるかもしれない。そしたら、公志の分を一切れもらえるかもしれない。自分の顔が、ニンマリするのが分かった。すると「ただいまー」とドアを開けて公志が帰って来た。邪な考えは潰えたのだった。
7月26日、河浦の櫻坂碁会所の月例会が開催された。
参加者は11名であった。6月の優勝者は久保五段だった。久しぶりに河浦から優勝者が出たのは、久保会長の面目躍如だ。

7月はこの私が全勝で優勝した。私も久々の優勝だったので、非常に嬉しかった。

鰻の御利益があったかもしれない。
7月31日、熊本の亀井通産(株)の秋冬の展示商談会がグランメッセで行われた。朝五時に出発した。
会場に着いたら、入り口でネームプレートを渡された。
会場の配置図を見ながら。自分たちの場所へ向かった。
天草のコーナーがあった。天草から来ているのはうちだけだった。
公志は車を移動させに駐車場へ行った。一人で立っていたら、横から「貝川社長さんですか」と声をかけられ、振り向くと法被を着た人が近づいて来た。「そうですが?」「私は元天草の肥後リースに勤めていた尾上と申します。」「え、あの髪の毛を七三に分け、黒スーツの尾上さんですか?」「そうです。」ワァー何十年振りですね。私が一番会いたかった人だった。
私は10年前くらいから心臓と脳の手術をして、正月の年賀状を一切出さなくなった。それでも尾上さんからは、毎年年賀状を頂いていた。
とても律儀なひとだ。だから一度会って、釈明をし謝りたいとずっと思っていた。
こんな形で再会できるなんて本当に嬉しかった。尾上さんは、ブログを見て私のことはわかっていらっしゃった公志が記念に写真を撮ってくれた。

昼の弁当はとても豪華だった。ヒライの弁当のようだ。

天草のコーナーは出店者は誰も居なく、お客さんも誰もいない。

昼頃になると、ボチボチ人が寄りだした。

イケダ食品の鬼木さん。イオンの堀さん。亀井通産の人とそのバイヤーさんとかが、続々と来て、商品の説明に追われた。試食を食べさせたら、みんなうまいと言ってくれた。
なんか久しぶりに会う人ばかりで、まるで同窓会みたいだった。やっぱり商談会は、ただ展示するだけじゃなくて、食べさせてしっかり自社商品をアピールしないといけない。少し手応えを感じて帰って来た。
翌8月1日はツムギの3才の誕生日だった。




7月20日にリニューアルオープンした海彩館の大漁食堂アオサへ行くことにした。
午後6時予約だったので、5時半に家を出た。しばらくするとツムギ達も来た。
すぐオレの所に来て、誕生日に買ってもらったんだろう、ミッキーやミニーが描いてあるワンピースを見せに来た。
よっぽど嬉しかったんだろう、嫁と公志にも見せてご満悦だった。
皆で乾杯して食事に入ったのだが、早く食べ終わり、「公志、かくれんぼしよう」とか、「馬になって」とか、公志をお気に入りだ。この頃は「最初はグー、ジャンケンポン」を覚えみたいで、「じゃーじいちゃんとジャンケンしようか」と言って、五百円を出した。わざと負けてやろと思うのだが、最初はグーの後、パーを出してばっかりで、チョキを出していると、ずっと勝つので、最後グーを出して負けてやった。
家に帰るとケーキが用意されていた。ローソクが3本立っていて、1本目のローソクはすぐに消えたが、2本目、3本目は消えなかった。

まだ肺活量が弱いんだろう。無事行事は終わった。
後は、11月の七五三だ。それまで生きていなければいけない。
お国に捧げた体。暑いとかだるいとか、いざという時熱中症とか、コロナにかかったりしたら、天皇陛下に申し訳が立たない。日本男子がこれくらいの暑さに負けてたまるか、アァーそれにしても暑い!
2024年06月26日
石酔会の興亡と「父の日」
♪親父みたいなヨ~酒飲~みなあどうに~ならぬつ~もりがなっていたァ~♪
また今年も父の日がやって来た。うちの親父は、酒は下戸で飲まなかったが、オレは中学生の頃から飲んでいた。その頃の一番の友達だった祐の字は社会人となり、漁師になっていた。
月の夜や、盆、正月には、祐ちゃんの家に集まり、皆で飲んでいた。
おふくろさんは、祐ちゃんを慕って来る仲間の為に、嫌な顔もせず、酒やつまみを用意して下さっていた。今でも感謝しています。
20歳過ぎたころ、囲碁を覚え、中央公園の横の岩佐碁会所に通うようになった。そこでいろいろな人と出会うことになった。
そこの碁会所の中で、常連客の皆さんに当時五段だった岩崎公利さんが、碁の勉強会の参加者を募った。
十数名が集まった。碁の好きな人たちが集まり、個人の家とかでも集まって勉強会をやっていた。その後は必ずといっていいくらい飲み会になっていた。そうしていると、「この会の名前をつけよう」と言うことで、名前を募った。そしたら、野田四郎さんが、「皆さん飲むのが好きな方ばっかりなので、石が酔う会、石酔会はどうだろ」と提案された。一同文句なしで決まった。
当時牛深棋友会という町全体の会があって、石酔会のメンバーは棋友会に入っていることが条件だった。私が25,6歳の頃だった。
初代会長に、佐々木亦男二段がなられた。二代目は、市役所の太田定三段、三代目平田健二二段、皆さん酒豪ばっかりだ。オレが一番年齢も若く、いつもパシリ役だった。でも夜になると、「貝川、飲みに行くぞ」とか、「ここの飲み屋にいるから出て来い」とか、いつも電話がかかって来ていた。でも嫌いではなかったので、光の速さで出かけていったものだ。
私が30歳の頃、一番年下なので、幹事長を任された。
冠婚葬祭の金額、忘年会や旅行の手配、二次会、三次会の集金、入会者の歓迎会などなど、所帯も20数名になった。その中に、警察署長、海上保安庁の署長、保健所の次長、小中学校の校長とかも名を連ねられていた。警察や海上保安庁の署長さんが、「貝川さん、一局教えてもらえないでしょうか」と言われて、碁盤に黒石を置かれるのを見ると、囲碁冥利に尽きると思った。
その後、50歳過ぎるまで、20年間も一人で切り盛りして運営して来た。
その間、初代会長、二代目は、還暦を過ぎて亡くなられた。三代目の平田さんも72歳で亡くなられた。そうしたら、棋友会の会長が、俺の知らない所で、根回しをして、石酔会をつぶしにかかった。オレは頭に来たが、時すでに遅しで、どうすることも出来なかった。だから、その場で棋友会を脱退した。
主になる人がいなくなると、お家騒動が起きるという事は本当だった。
その後、祐ちゃんも吉田一久さんも、鬼籍の人になり、黄泉の国へ旅立たれた。
6月16日、工場で留守番をしていると、ツムギがやってきて「はい、どうぞ」と言って、紙の下げ袋を渡した。中を見てみると、「半袖のシャツ」が入っていた。「うわぁー父の日のプレゼントや、ありがとうね」と言って、ハイタッチをした。


6月上旬に葬儀の御礼のカタログギフトが送って来た。
何を選ぼうかとパラパラめくったら、酒があった。迷わず岡山の酒を注文した。そしたら、6月16日、父の日にそれが届いた。ラッキーと思った。
その日は嫁と、公志はとれたて市場へ店頭販売に行ってた。
「公志!酒が届いた。川床さんの2000円の刺身を買って来てくれ。」と電話を入れる。オレは今夜の為に酒を冷蔵庫で冷やした。
夕方家族でささやかな父の日を祝った。


風呂場事件以来、焼酎も酒も飲んでいない。冷えた大吟醸を湯吞みに注ぐ。

少しだけ「匂い」をかぎ、一口だけ喉元に流してやる。すーと入っていき、やがて五臓六腑に染み渡っていく。大吟醸酒だ。まずいわけがない。
こうして、今年も家族からぐうたらな父の日を祝ってもらう事ができた。謝々。
笑いは百薬の長
紀元前、中国の孔子は、弟子からある質問をされた。
「先生、処女を貴重だと思う男は多いですよね。」「そのとおりだ」
「しかし、童貞は女に気持ち悪がられるのはおかしいじゃないですか」「確かに」
「なぜこのような違いが男と女では生まれるのでしょうか」この弟子の質問に、孔子は答えた。
「それは、一度も侵入を許したことのない砦は頼もしく、一度も侵入に成功しない兵士は頼もしくないからだ。」
「なるほど、先生のおっしゃる通りですね。では、30年も侵入を許してない砦は頼もしいという事でしょうか?」
「いや、その砦は侵入する価値が無いんだよ!」
また今年も父の日がやって来た。うちの親父は、酒は下戸で飲まなかったが、オレは中学生の頃から飲んでいた。その頃の一番の友達だった祐の字は社会人となり、漁師になっていた。
月の夜や、盆、正月には、祐ちゃんの家に集まり、皆で飲んでいた。
おふくろさんは、祐ちゃんを慕って来る仲間の為に、嫌な顔もせず、酒やつまみを用意して下さっていた。今でも感謝しています。
20歳過ぎたころ、囲碁を覚え、中央公園の横の岩佐碁会所に通うようになった。そこでいろいろな人と出会うことになった。
そこの碁会所の中で、常連客の皆さんに当時五段だった岩崎公利さんが、碁の勉強会の参加者を募った。
十数名が集まった。碁の好きな人たちが集まり、個人の家とかでも集まって勉強会をやっていた。その後は必ずといっていいくらい飲み会になっていた。そうしていると、「この会の名前をつけよう」と言うことで、名前を募った。そしたら、野田四郎さんが、「皆さん飲むのが好きな方ばっかりなので、石が酔う会、石酔会はどうだろ」と提案された。一同文句なしで決まった。
当時牛深棋友会という町全体の会があって、石酔会のメンバーは棋友会に入っていることが条件だった。私が25,6歳の頃だった。
初代会長に、佐々木亦男二段がなられた。二代目は、市役所の太田定三段、三代目平田健二二段、皆さん酒豪ばっかりだ。オレが一番年齢も若く、いつもパシリ役だった。でも夜になると、「貝川、飲みに行くぞ」とか、「ここの飲み屋にいるから出て来い」とか、いつも電話がかかって来ていた。でも嫌いではなかったので、光の速さで出かけていったものだ。
私が30歳の頃、一番年下なので、幹事長を任された。
冠婚葬祭の金額、忘年会や旅行の手配、二次会、三次会の集金、入会者の歓迎会などなど、所帯も20数名になった。その中に、警察署長、海上保安庁の署長、保健所の次長、小中学校の校長とかも名を連ねられていた。警察や海上保安庁の署長さんが、「貝川さん、一局教えてもらえないでしょうか」と言われて、碁盤に黒石を置かれるのを見ると、囲碁冥利に尽きると思った。
その後、50歳過ぎるまで、20年間も一人で切り盛りして運営して来た。
その間、初代会長、二代目は、還暦を過ぎて亡くなられた。三代目の平田さんも72歳で亡くなられた。そうしたら、棋友会の会長が、俺の知らない所で、根回しをして、石酔会をつぶしにかかった。オレは頭に来たが、時すでに遅しで、どうすることも出来なかった。だから、その場で棋友会を脱退した。
主になる人がいなくなると、お家騒動が起きるという事は本当だった。
その後、祐ちゃんも吉田一久さんも、鬼籍の人になり、黄泉の国へ旅立たれた。
6月16日、工場で留守番をしていると、ツムギがやってきて「はい、どうぞ」と言って、紙の下げ袋を渡した。中を見てみると、「半袖のシャツ」が入っていた。「うわぁー父の日のプレゼントや、ありがとうね」と言って、ハイタッチをした。


6月上旬に葬儀の御礼のカタログギフトが送って来た。
何を選ぼうかとパラパラめくったら、酒があった。迷わず岡山の酒を注文した。そしたら、6月16日、父の日にそれが届いた。ラッキーと思った。
その日は嫁と、公志はとれたて市場へ店頭販売に行ってた。
「公志!酒が届いた。川床さんの2000円の刺身を買って来てくれ。」と電話を入れる。オレは今夜の為に酒を冷蔵庫で冷やした。
夕方家族でささやかな父の日を祝った。


風呂場事件以来、焼酎も酒も飲んでいない。冷えた大吟醸を湯吞みに注ぐ。

少しだけ「匂い」をかぎ、一口だけ喉元に流してやる。すーと入っていき、やがて五臓六腑に染み渡っていく。大吟醸酒だ。まずいわけがない。
こうして、今年も家族からぐうたらな父の日を祝ってもらう事ができた。謝々。
笑いは百薬の長
紀元前、中国の孔子は、弟子からある質問をされた。
「先生、処女を貴重だと思う男は多いですよね。」「そのとおりだ」
「しかし、童貞は女に気持ち悪がられるのはおかしいじゃないですか」「確かに」
「なぜこのような違いが男と女では生まれるのでしょうか」この弟子の質問に、孔子は答えた。
「それは、一度も侵入を許したことのない砦は頼もしく、一度も侵入に成功しない兵士は頼もしくないからだ。」
「なるほど、先生のおっしゃる通りですね。では、30年も侵入を許してない砦は頼もしいという事でしょうか?」
「いや、その砦は侵入する価値が無いんだよ!」
2024年06月10日
月例会と忌明け
♪およばぬことと~あきらめました~だけど恋しい~あ~の人ーよ~
雨に打たれて~咲いている~花が私の~恋かしら~♪
昭和30年代後半の曲で、井上ひろしの『雨に咲く花』の一節である。
昨日南九州は梅雨に入ったと、ニュースで聞いた。うっとおしい季節だ。
一年中で最も蒲鉾が売れない時期でもある。
5月31日、河浦の櫻坂碁会所で月例会があった。
牛深から4名、河浦から7名、総勢11名で熱戦が繰り広げられた。これだけ集まると大会も盛況で面白い。


優勝は正光寺の嶋津六段で、2位は私、3位は丸山三段だった。
丸山さんが3位入賞されたのは、河浦の面目躍如だ。よく健闘された。
私の2位は、天敵の崎本さんが欠席されていたからだろう。
6月2日は、4月12日に亡くなった、長島の兄貴の奥さんの忌明けの法要が、牛深の西涼閣で行われた。東京から長女と、次男とその息子の3人も出席した。



西涼閣の御住職とは、何年振りかで会った。80代後半になられ、先日運転免許も返納されたそうだ。40分位で法要も終わり、お寺からお茶とお菓子が出された。
ふとイスを見ると、次男の息子が椅子に座ったまま寝ていた。

私もそうだが、どうもお経を聴いていると眠くなる。お経には眠くなる周波が出ているようで、聴いていると、心地良い気持ちになり、つい眠ってしまう。
だから子供が椅子で眠っているのもうなずける。
昼になったので、場所を海彩館に移ってもらった。
今、海彩館のレストランあおさは改装の為、下のハイヤ道場を臨時レストランとして使っている。海彩館のオーナーも代わり、料理長も代わったと聞いた。みんなの感想は好評であった。


食事が終わった後は、正光寺に49日の法要が終わった事を報告に行った。


すると住職が、「ようこらした。上がらんな、上がらんな」と言って本堂に案内された。
そこで20分位の法要が終わり、今日の行事はすべて終わった。
帰り際、「貝川さん、暇やったら一局打っていかんとや」と言われたが、歯医者に行く予定があったので、今回は遠慮させてもらった。
先週、正光寺の御住職から、缶ビールや赤巻きや饅頭など、たくさんもらった。近頃とても懇意にしてもらっている。恐縮しています。
この場を借りて厚くお礼申し上げます。
笑いは百薬の長
神父があるオフィス街で、タクシーに乗った。不運にもそのタクシーの運転手はボブと言って、荒くれ者で狭い道を100km/hで走り、信号無視や逆走などで違反を繰り返していた。神父はあまりの恐怖で心の底から神に祈った。だが、不幸な事に、大型トラックと衝突して2人は還らぬ人となって天国に送られた。
しかし不思議にも、ボブは天国に建つ大豪邸を賜り、美女を妻として楽しく過ごしていた。
神父は生前よりも貧困生活を余儀なくされていた。
不満に思った神父は神に聞いた。「神様、私は神父として生涯神に仕えて来ました。なのになぜ天国でこんな生活を、ボブと私とではどう違うのですか。」
神は言った。「お前の説教は皆退屈で眠っていた。だが、彼の車に乗った者は、皆本気で神に祈ったのだ。天国での待遇はその人間が、生前にどれだけ神を信じさせたかだ。」
とある酒場の入り口に立て看板が立っていた。そこには「この馬を笑わせたものにはバーボンを一杯サービス」と書かれてある。
次々と客が挑戦するが、誰一人笑わせることはできなかった。
ある日、1人の男がやってきて、ウマの耳元で何かを話し始めた。すると、馬は大笑いした。
男はバーボンを一杯飲んで帰っていった。
男は次の日も、また次の日も来て、馬を笑わせバーボンを飲んでいった。
店主は商売上がったりと思って、看板を書き換えた。
「この馬を泣かせた者には、バーボンを一杯サービス」と書いた。
するとまたあの男がやって来た。看板を見た男は店主に言った。
「この馬をちょっとトイレまで連れて行っていいかい。」と言って、トイレに連れて行った。
すると馬は、涙を流しながら、出て来た。男がバーボンを飲んで立ち去ろうとしたとき、店主は男に尋ねた。「どうやって馬を笑わせた。」
男は言った。「俺のはお前より太い」て、言ったんだ。
「それじゃどうやって泣かせたんだ。」
「俺のいちもつを見せてやったのさ。」
雨に打たれて~咲いている~花が私の~恋かしら~♪
昭和30年代後半の曲で、井上ひろしの『雨に咲く花』の一節である。
昨日南九州は梅雨に入ったと、ニュースで聞いた。うっとおしい季節だ。
一年中で最も蒲鉾が売れない時期でもある。
5月31日、河浦の櫻坂碁会所で月例会があった。
牛深から4名、河浦から7名、総勢11名で熱戦が繰り広げられた。これだけ集まると大会も盛況で面白い。


優勝は正光寺の嶋津六段で、2位は私、3位は丸山三段だった。
丸山さんが3位入賞されたのは、河浦の面目躍如だ。よく健闘された。
私の2位は、天敵の崎本さんが欠席されていたからだろう。
6月2日は、4月12日に亡くなった、長島の兄貴の奥さんの忌明けの法要が、牛深の西涼閣で行われた。東京から長女と、次男とその息子の3人も出席した。



西涼閣の御住職とは、何年振りかで会った。80代後半になられ、先日運転免許も返納されたそうだ。40分位で法要も終わり、お寺からお茶とお菓子が出された。
ふとイスを見ると、次男の息子が椅子に座ったまま寝ていた。

私もそうだが、どうもお経を聴いていると眠くなる。お経には眠くなる周波が出ているようで、聴いていると、心地良い気持ちになり、つい眠ってしまう。
だから子供が椅子で眠っているのもうなずける。
昼になったので、場所を海彩館に移ってもらった。
今、海彩館のレストランあおさは改装の為、下のハイヤ道場を臨時レストランとして使っている。海彩館のオーナーも代わり、料理長も代わったと聞いた。みんなの感想は好評であった。


食事が終わった後は、正光寺に49日の法要が終わった事を報告に行った。


すると住職が、「ようこらした。上がらんな、上がらんな」と言って本堂に案内された。
そこで20分位の法要が終わり、今日の行事はすべて終わった。
帰り際、「貝川さん、暇やったら一局打っていかんとや」と言われたが、歯医者に行く予定があったので、今回は遠慮させてもらった。
先週、正光寺の御住職から、缶ビールや赤巻きや饅頭など、たくさんもらった。近頃とても懇意にしてもらっている。恐縮しています。
この場を借りて厚くお礼申し上げます。
笑いは百薬の長
神父があるオフィス街で、タクシーに乗った。不運にもそのタクシーの運転手はボブと言って、荒くれ者で狭い道を100km/hで走り、信号無視や逆走などで違反を繰り返していた。神父はあまりの恐怖で心の底から神に祈った。だが、不幸な事に、大型トラックと衝突して2人は還らぬ人となって天国に送られた。
しかし不思議にも、ボブは天国に建つ大豪邸を賜り、美女を妻として楽しく過ごしていた。
神父は生前よりも貧困生活を余儀なくされていた。
不満に思った神父は神に聞いた。「神様、私は神父として生涯神に仕えて来ました。なのになぜ天国でこんな生活を、ボブと私とではどう違うのですか。」
神は言った。「お前の説教は皆退屈で眠っていた。だが、彼の車に乗った者は、皆本気で神に祈ったのだ。天国での待遇はその人間が、生前にどれだけ神を信じさせたかだ。」
とある酒場の入り口に立て看板が立っていた。そこには「この馬を笑わせたものにはバーボンを一杯サービス」と書かれてある。
次々と客が挑戦するが、誰一人笑わせることはできなかった。
ある日、1人の男がやってきて、ウマの耳元で何かを話し始めた。すると、馬は大笑いした。
男はバーボンを一杯飲んで帰っていった。
男は次の日も、また次の日も来て、馬を笑わせバーボンを飲んでいった。
店主は商売上がったりと思って、看板を書き換えた。
「この馬を泣かせた者には、バーボンを一杯サービス」と書いた。
するとまたあの男がやって来た。看板を見た男は店主に言った。
「この馬をちょっとトイレまで連れて行っていいかい。」と言って、トイレに連れて行った。
すると馬は、涙を流しながら、出て来た。男がバーボンを飲んで立ち去ろうとしたとき、店主は男に尋ねた。「どうやって馬を笑わせた。」
男は言った。「俺のはお前より太い」て、言ったんだ。
「それじゃどうやって泣かせたんだ。」
「俺のいちもつを見せてやったのさ。」
2024年05月21日
櫻坂碁会所と風呂場事件
♪いらか~の波と雲の波~重なる波の~中空を、橘香る朝風に~高く泳ぐや、鯉のぼり~♪
5月5日は子供の日、今の子供たちは、いらかの波と言っても知らない子供ばかりだろう。戦後小学校の文部省唱歌に『我は海の子』という歌があった。♪煙たなびく苫屋こそ、我が懐かしき住み家なれ♪甍(いらか)=屋根の瓦、苫屋(とまや)=すげやカヤで覆った屋根。
歌詞の中にこの言葉が出てきても、今の子供達には理解できないということで、平成になってから、この唱歌は音楽の教科書から外された。
でも我々昭和生まれの者にとっては、70歳過ぎてもいつでも口ずさむことが出来る。
5月5日、まご娘と子供の日の祝いに、海彩館に行った。
6時集合だった。待ってたら、ツムギ達も来た。挨拶もそこそこに、「コージかくれんぼしようよ」とツムギが次男の所へ駆け寄って来た。
料理が来るまで次男が相手してた。自分が隠れて「もういいかい」というので、みんな爆笑だった。
ごはんを食べたら、今度は「お馬さんやって」と言って、次男の背中に乗り、ご満悦だった。コージを自分の友達くらいに思っている。


いっときもじっとしていない所が欠点だが、元気いっぱい遊んでいる姿を見ていると、幸せを感じる今日この頃だ。
5月10日、天空の碁会所から、新しい碁会所に移っての第1回目の月例会が、河浦コミュニケーションセンターで行われた。

総勢8名で、熱戦が繰り広げられた。私の初戦は野田さんだった。先月は私が勝っていたのでリベンジに燃えておられた。
嫌な感じがしたんだが、案の定負けてしまった。初戦を負けると、後が勢いに乗れない所がある。結果は、1勝3敗1引き分けの惨敗に終わった。
優勝は吉田四段の初優勝が決まった。
今回までは久保さんも休みだったが、次回からは参加するとの事だった。
謹ちゃん、丸山さんが、上位に勝ち上がってきて欲しいものだが、小川さん、嶋津さん、野田さんと六段がいるから、ハードルが高いが、これからの頑張りに期待しましょう。

それから、この新しい碁会所を櫻坂碁会所とブログでは命名したいと思います。
5月17日、工場で留守番してスマホをいじっていたら、突然画面が真っ黒になった。どんなにしても画面が出てこない。
「やばい」と思い、次男に電話した。すぐ来てくれた。「本渡のドコモに連れて行ってくれ。スマホが壊れたみたいだ。」
次男がスマホをいじったが、回復しない。じゃドコモに予約を入れて行こうと言って予約を入れたが、午後からしか開いてないとの事だった。午後1時に予約した。時間があるので、次男が再度スマホの再起動に挑んだ。そしたら回復した。「ホッとした」が「中の容量がいっぱいなので、この際替えようか」と言うことで、予約を明日に変更してもらった。
5月18日、ドコモに行った。10万のスマホを買わされた。
幸い分割ができたので、安心したが、痛い出費だった。
夕食の時、次男と一緒に焼酎を飲んだのだが、ロックで飲んだが一気に飲んだのだろう。少し足元がおぼつかなかった。
風呂に入ったのは良かったのだけど、上がる時、湯船から足を上げかわしきれなくて、そのまま簀の子の上に落ち、洗面器もバラバラに割れてしまった。大きな音だったので、嫁が飛んできた。「そして、コージ、コージと大声で呼んだ。」
そしてら、「トイレ、トイレ」とトイレから声がした。コージは昔からここ一番と言う時トイレをする習性があった。
急いで出て来たコージに「尻は拭いて来たかー」とオレが言う。
「尻どころじゃなかどもん」嫁から怒られる。俺の左手は風呂と簀の子の間の溝にハマって抜けない。ようやく公志から助け出された。
翌日オレの左手を見て、「相当傷がついてるがや、ひっくり返されたカメのごたった。恥ずかしか」と公志に言われた。その日は酒を飲まなかった。当分は飲まない。

私、思い起こせば、誕生日から、益城の木山初市、今度の風呂場事件と、恥ずかしき数々、今はただ反省の日々を送っています。
笑いは百薬の長
アメリカンジョークには、神様とか天国を扱ったジョークが多い。
日本では、神様のジョークはまずない。そこが自由の国アメリカなんだろう。
とある町でひどい事件が起きた。それは1人の女に人々が石を投げつけていた。女は「やめてください」と叫ぶが、やめてくれる者は誰もいない。
そこに、天から一筋の光が走り、天からイエスキリストが降臨した。
イエスは、石を投げているものに言った。「なぜ女に石を投げているのだ。」
すると1人の男が答えた。「この女はある家から高価な財宝を盗んだ罪人だからです。」
「ならば続けなさい」しかしイエスはとある言葉付け加えた。「ただし、今まで何も罪を犯したことのない正しい者だけが、石を投げる権利がある。」
すると1人が、「私は過去に家の金を盗んだことがあった。」と言って、女に謝り、この場を立ち去って行った。
それに続くように、1人、また1人と去って行った。
とうとう彼女に石を投げつける者は、誰も居なくなった。
彼女に石を投げている者はイエスキリストただ1人になった。
5月5日は子供の日、今の子供たちは、いらかの波と言っても知らない子供ばかりだろう。戦後小学校の文部省唱歌に『我は海の子』という歌があった。♪煙たなびく苫屋こそ、我が懐かしき住み家なれ♪甍(いらか)=屋根の瓦、苫屋(とまや)=すげやカヤで覆った屋根。
歌詞の中にこの言葉が出てきても、今の子供達には理解できないということで、平成になってから、この唱歌は音楽の教科書から外された。
でも我々昭和生まれの者にとっては、70歳過ぎてもいつでも口ずさむことが出来る。
5月5日、まご娘と子供の日の祝いに、海彩館に行った。
6時集合だった。待ってたら、ツムギ達も来た。挨拶もそこそこに、「コージかくれんぼしようよ」とツムギが次男の所へ駆け寄って来た。
料理が来るまで次男が相手してた。自分が隠れて「もういいかい」というので、みんな爆笑だった。
ごはんを食べたら、今度は「お馬さんやって」と言って、次男の背中に乗り、ご満悦だった。コージを自分の友達くらいに思っている。


いっときもじっとしていない所が欠点だが、元気いっぱい遊んでいる姿を見ていると、幸せを感じる今日この頃だ。
5月10日、天空の碁会所から、新しい碁会所に移っての第1回目の月例会が、河浦コミュニケーションセンターで行われた。

総勢8名で、熱戦が繰り広げられた。私の初戦は野田さんだった。先月は私が勝っていたのでリベンジに燃えておられた。
嫌な感じがしたんだが、案の定負けてしまった。初戦を負けると、後が勢いに乗れない所がある。結果は、1勝3敗1引き分けの惨敗に終わった。
優勝は吉田四段の初優勝が決まった。
今回までは久保さんも休みだったが、次回からは参加するとの事だった。
謹ちゃん、丸山さんが、上位に勝ち上がってきて欲しいものだが、小川さん、嶋津さん、野田さんと六段がいるから、ハードルが高いが、これからの頑張りに期待しましょう。

それから、この新しい碁会所を櫻坂碁会所とブログでは命名したいと思います。
5月17日、工場で留守番してスマホをいじっていたら、突然画面が真っ黒になった。どんなにしても画面が出てこない。
「やばい」と思い、次男に電話した。すぐ来てくれた。「本渡のドコモに連れて行ってくれ。スマホが壊れたみたいだ。」
次男がスマホをいじったが、回復しない。じゃドコモに予約を入れて行こうと言って予約を入れたが、午後からしか開いてないとの事だった。午後1時に予約した。時間があるので、次男が再度スマホの再起動に挑んだ。そしたら回復した。「ホッとした」が「中の容量がいっぱいなので、この際替えようか」と言うことで、予約を明日に変更してもらった。
5月18日、ドコモに行った。10万のスマホを買わされた。
幸い分割ができたので、安心したが、痛い出費だった。
夕食の時、次男と一緒に焼酎を飲んだのだが、ロックで飲んだが一気に飲んだのだろう。少し足元がおぼつかなかった。
風呂に入ったのは良かったのだけど、上がる時、湯船から足を上げかわしきれなくて、そのまま簀の子の上に落ち、洗面器もバラバラに割れてしまった。大きな音だったので、嫁が飛んできた。「そして、コージ、コージと大声で呼んだ。」
そしてら、「トイレ、トイレ」とトイレから声がした。コージは昔からここ一番と言う時トイレをする習性があった。
急いで出て来たコージに「尻は拭いて来たかー」とオレが言う。
「尻どころじゃなかどもん」嫁から怒られる。俺の左手は風呂と簀の子の間の溝にハマって抜けない。ようやく公志から助け出された。
翌日オレの左手を見て、「相当傷がついてるがや、ひっくり返されたカメのごたった。恥ずかしか」と公志に言われた。その日は酒を飲まなかった。当分は飲まない。

私、思い起こせば、誕生日から、益城の木山初市、今度の風呂場事件と、恥ずかしき数々、今はただ反省の日々を送っています。
笑いは百薬の長
アメリカンジョークには、神様とか天国を扱ったジョークが多い。
日本では、神様のジョークはまずない。そこが自由の国アメリカなんだろう。
とある町でひどい事件が起きた。それは1人の女に人々が石を投げつけていた。女は「やめてください」と叫ぶが、やめてくれる者は誰もいない。
そこに、天から一筋の光が走り、天からイエスキリストが降臨した。
イエスは、石を投げているものに言った。「なぜ女に石を投げているのだ。」
すると1人の男が答えた。「この女はある家から高価な財宝を盗んだ罪人だからです。」
「ならば続けなさい」しかしイエスはとある言葉付け加えた。「ただし、今まで何も罪を犯したことのない正しい者だけが、石を投げる権利がある。」
すると1人が、「私は過去に家の金を盗んだことがあった。」と言って、女に謝り、この場を立ち去って行った。
それに続くように、1人、また1人と去って行った。
とうとう彼女に石を投げつける者は、誰も居なくなった。
彼女に石を投げている者はイエスキリストただ1人になった。
2024年05月05日
事故発生
初夏を代表する句に、「目に青葉、山ほととぎす、初鰹」がある。
昔の江戸っ子は、嫁さんを質に入れてでも初鰹を食べたと言う。
俺も嫁さんを質に入れて、初鰹を食べたいけれど、「お客さん、賞味期限がとっくに切れている物は、質草にはなりませんよ。」と言われるのが落ちだろう。
5月2日、翌日3日のグリーントップと、とれたて市場の店頭販売の為に、柚子胡椒入りの揚げ蒲鉾を作った。12時半過ぎから揚げ始め、アツアツを市内の花屋さん、パン屋さん、床屋さん、お寺、会議所、各銀行、保育園、リッカー等々、売りに廻った。
その間、俺は留守番をしていた。すると息子が、予想以上に売れたのだろう、蒲鉾を取りに帰って来た。
そして、「オヤジ、ロッキーの前で事故があってる。警察も来ている。」と教えてくれた。「あれ、パトの音も救急車の音もしなかったがなァー」と思い、表に出て見た。
「アリャー、縁石に乗り上げ、派手にやってるなァー」と近くまで見に行った。

自損事故のようだ。運転していたのは、年輩の方のようだった。
この見通しの良い道路で、30cmくらいの縁石に乗り上げるとは、相当スピードを出していたのかもしれない。レッカー車に乗せ、すぐ事故処理は終わった。車だけのケガで済んでよかった。
今、巷はゴールデンウィークの真っ只中、行楽地が賑わいを見せている。
まご娘、ツムギ達も4月28日、29日で、熊本の動植物園に行った。

ゾウさんに会いたいと言っていた。




回転木馬、イルカの乗り物、シマウマに乗り、ご満悦だった。
パンダとくまモンは本物ではなかったので、記念撮影だけにした。


ツムギも2才と8ヶ月、小中学生になっても、今日のことは記憶に残っているのだろうか?まだ早いか。
行楽地の定義
行楽地とは、疲れた人が、より疲れに行く所。
笑いは百薬の長
其の1
ある老夫婦が、州の祭りに出かけて行った。
夫「ねえ遊覧ヘリコプターに乗ろうよ」
妻「でも100ドルもするのよ。なんてたって100ドルよ」
年月は過ぎ、今年も老夫婦がやって来た。
夫「もう二人とも、今年80歳だから、今年遊覧ヘリコプターに乗らないと、来年は乗れないかもしれないよ」
妻「でも、100ドルするのよ。なんてたって100ドルですから」
それを聞いていたヘリの操縦パイロットが言った。
「じゃ、タダでヘリに乗せてあげる。ただし、飛行中に声を出さなければだけど、もし声を出したら100ドル払うって言うのはどうだい」
老夫婦はOKしてヘリに乗った。
パイロットは急上昇や急降下を繰り返し、何とか声を出させようと、可能か限りアクロバット飛行をした。
しかし老夫婦は声を出さなかった。着陸して、パイロットは言った。
「負けたよ。なんとかしてあんたたちに声を出させようと思ったんだが、あんたら夫婦には敵わないよ」
すると夫が言った。
「なんてたって100ドルだからね。でも妻が落ちていった時は、もう少しで声を出してしまいそうになったよ」
其の2
息子「お父さん、僕はどうして一人っ子なの?」
父「お前が早く寝ないからだよ!」
昔の江戸っ子は、嫁さんを質に入れてでも初鰹を食べたと言う。
俺も嫁さんを質に入れて、初鰹を食べたいけれど、「お客さん、賞味期限がとっくに切れている物は、質草にはなりませんよ。」と言われるのが落ちだろう。
5月2日、翌日3日のグリーントップと、とれたて市場の店頭販売の為に、柚子胡椒入りの揚げ蒲鉾を作った。12時半過ぎから揚げ始め、アツアツを市内の花屋さん、パン屋さん、床屋さん、お寺、会議所、各銀行、保育園、リッカー等々、売りに廻った。
その間、俺は留守番をしていた。すると息子が、予想以上に売れたのだろう、蒲鉾を取りに帰って来た。
そして、「オヤジ、ロッキーの前で事故があってる。警察も来ている。」と教えてくれた。「あれ、パトの音も救急車の音もしなかったがなァー」と思い、表に出て見た。
「アリャー、縁石に乗り上げ、派手にやってるなァー」と近くまで見に行った。

自損事故のようだ。運転していたのは、年輩の方のようだった。
この見通しの良い道路で、30cmくらいの縁石に乗り上げるとは、相当スピードを出していたのかもしれない。レッカー車に乗せ、すぐ事故処理は終わった。車だけのケガで済んでよかった。
今、巷はゴールデンウィークの真っ只中、行楽地が賑わいを見せている。
まご娘、ツムギ達も4月28日、29日で、熊本の動植物園に行った。

ゾウさんに会いたいと言っていた。




回転木馬、イルカの乗り物、シマウマに乗り、ご満悦だった。
パンダとくまモンは本物ではなかったので、記念撮影だけにした。


ツムギも2才と8ヶ月、小中学生になっても、今日のことは記憶に残っているのだろうか?まだ早いか。
行楽地の定義
行楽地とは、疲れた人が、より疲れに行く所。
笑いは百薬の長
其の1
ある老夫婦が、州の祭りに出かけて行った。
夫「ねえ遊覧ヘリコプターに乗ろうよ」
妻「でも100ドルもするのよ。なんてたって100ドルよ」
年月は過ぎ、今年も老夫婦がやって来た。
夫「もう二人とも、今年80歳だから、今年遊覧ヘリコプターに乗らないと、来年は乗れないかもしれないよ」
妻「でも、100ドルするのよ。なんてたって100ドルですから」
それを聞いていたヘリの操縦パイロットが言った。
「じゃ、タダでヘリに乗せてあげる。ただし、飛行中に声を出さなければだけど、もし声を出したら100ドル払うって言うのはどうだい」
老夫婦はOKしてヘリに乗った。
パイロットは急上昇や急降下を繰り返し、何とか声を出させようと、可能か限りアクロバット飛行をした。
しかし老夫婦は声を出さなかった。着陸して、パイロットは言った。
「負けたよ。なんとかしてあんたたちに声を出させようと思ったんだが、あんたら夫婦には敵わないよ」
すると夫が言った。
「なんてたって100ドルだからね。でも妻が落ちていった時は、もう少しで声を出してしまいそうになったよ」
其の2
息子「お父さん、僕はどうして一人っ子なの?」
父「お前が早く寝ないからだよ!」
2024年04月18日
永久の別れ
3月30日、久しぶりにとれたて市場に、嫁と次男で店頭販売に行った。
今は昔ほど売れなくなった。
夕方、家に帰ったら、いつもの夕飯より少し豪勢な食卓であった。

「お、今日は何だ、豪勢だネェ。」と言うと、次男が「今日は何の日でしょう。」と言う。
「何の日と言われてもネェ」と思い出せない。
すると嫁が、「今年1年頑張りましょう。」と言って、ノンアルのビールで乾杯をしてきた。

「アッ、そうか、今日は結婚記念日だ。すっかり忘れた。アーすまない。俺としたことが。」と嫁に詫びた。
嫁が「去年は私が忘れていたから、あいこだネェ」と笑った。
すると次男が「親父たちは何がきっかけで結婚することになったんだ。」と聞いてきた。
一瞬、下をうつむき、静かに答えた。「魔が差したんだ。」
4月12日正午前、スマホに着信が入る。長島の兄貴からだった。「ケンスケ、マスミが今亡くなった。詳しくは後で連絡する。」と言って電話を切った。
「しまった。14日にお見舞いに行くつもりでいたのに、もっと早く行くべきだった。残念。」すぐ、親戚中に電話で知らせた。
翌13日、天附の杉本夫妻とお悔みに行った。
お通夜が、午後6時だったので、フェリーの便が無くなるとのことで、朝9時40分のフェリーに乗った。
フェリーから、仏様は、自宅か斎場かどちらに安置されているか聞いたら、自宅との事で、自宅に向かった。
マスミさんは安らかな顔で、眠っておられた。
みんなで両手を合わせ、兄貴にお悔みの言葉を述べた。兄貴から、死亡までの経過を聞いた後、次のフェリーの便の時間まで、昔話や思い出話に花が咲いた。兄貴が、帰る時は「ジャガイモを持って行ってくれ。長島のジャガイモはうまかで。」と言ってくれた。そろそろ時間になったので、みんな車に乗り込み、兄貴をはじめ、家族に見送られ、2,3メートル車が動いたところで、杉本さんの嫁さんが、「ア、ジャガイモをもらってない。バック、バックと言いだされた。」少しバックして、窓から首を出して、「ジャガイモを忘れた。」と言ったら、兄貴も慌てて取りに戻り、長女の息子と二人で、コンテナいっぱいのジャガイモを後ろに積んでくれた。
翌14日、朝、長男家族とフェリー乗り場で待ち合わせ、長男の車で行くことになった。すでに親戚の方々も集まっておられた。9時40分のフェリーにみんな乗船し、長島に向かった。
まご娘のツムギも船旅は初めてで、朝早くから起きて楽しみにしていたようだ。客室にじっとしてないで、外に出たり入ったり一時もじっとしていないで、はしゃぎ廻った。


見かねた長男が、3階の甲板に連れて行き、海を眺めさせた。外は天気晴朗なれど、風強しだった。ツムギもとても機嫌が良かった。


蔵之元に着き、一路平尾の斎場へ向かった。斎場では、上筋家の家族や孫たちが迎えてくれた。
葬式じゃないなら再会を喜び合うのだが、今日は挨拶もそこそこに、席に着いた。
マスミさんの遺影の前で、1人憔悴して座っている兄貴の後ろ姿を見ていると、何て話しかけていいか言葉が見つからなかった。

生前楽しかったことが、走馬灯のようによみがえり、懐かしく思い出されていたに違いない。
式も終わり、出棺の運びとなった。生花を渡され、次々に棺の中に添えていく。最後のお別れだ。生花を入れている兄貴の姿を見ていると、子供たちは皆、東京にいるし、最愛の嫁さんには先立たれ、これから長島で1人暮らしていくのかと思うと、可哀想で涙が出てくる。



ここで親戚の人たちは皆帰られた。我が家族だけは、火葬場まで行き、お骨を拾って帰りますと伝えた。
火葬場は、行人岳の中腹にあった。この火葬場、最近でけたのだろう。きれいに整頓され、ホテルのロビーみたいな感じだった。何も知らないツムギは、広い火葬場の周りを、何べんも走り回っていた。



フェリーの時間が近づいてきたので、みんなに見送られて帰路についた。
ツムギは車に乗せた途端、すぐ眠ってしまった。疲れたんだろう。みんなご苦労さんでした。
マスミさんにはエピソードが2つある。
1つは、新婚旅行に旅立つ朝、瀬崎の港まで、俺のライトバンで送って行った。後ろのドアを開け、荷物を下ろした。下ろし終わった兄貴はライトバンの後ろのドアに手をかけた。自分の少し前にマスミさんが立っていたのだが、当たらないと思っていたんだろう。思い切りドアをおろした。
「ゴォーン」と鈍い音がした。俺は一瞬青ざめた。救急車を呼びまいかもと。兄貴はただ謝るばかりで、マスミさんは涙目になって、怒るに怒れないし、そういえばその後、新婚旅行中はどうなったかは聞いてなかったなァー。いや、あれは痛かっただろう。
2つ目は、優子(長女)が幼稚園児の頃、「お母さん、優子もお兄ちゃんみたいなおチンチンが欲しい。」と言ってマスミさんを困らせた。
マスミさんは、マスミさんで、「ハイハイ、今度デパートに行った時、買ってあげるからネ。」と納得させた。俺は、デパートなんかには売ってありませんよーと思っていたが、NHKのグッツに売ってあった。NHKのディレクターと結婚したのだ。これには俺も参った。大事に使えヨ、優子。
笑いは百薬の長
ある女性が、買い物を終えて、スーパーから出てくると、とても長い葬送の列に出くわした。先頭には、2つの棺、そしてその後には200人の女性だけの列が続いて歩いているのである。あまりにも不思議な光景だったので、女性は自分のと同じ年くらいの喪主とおぼしき女性に尋ねた。
「あの、このような時にぶしつけとは思いますが、いったいどなたの葬列なのでしょうか。」喪主の女性は、ちらりと目線を上げ「一番目の棺は私の夫です。長年飼っていた飼い犬に噛み殺されたのです。」
「まァー、それはなんと不幸な」と女性が驚くと、喪主は、言葉を続けた。「二番目の棺は夫の母親です。彼女は夫を助けようとし、やはり同じ犬に嚙み殺されたのです。」その言葉を聞くと、女性は遠慮がちに言った。「あの、よろしければそのワンちゃんを貸してもらえないでしょうか。」
「そしたら、列の最後にお並びください。」
今は昔ほど売れなくなった。
夕方、家に帰ったら、いつもの夕飯より少し豪勢な食卓であった。

「お、今日は何だ、豪勢だネェ。」と言うと、次男が「今日は何の日でしょう。」と言う。
「何の日と言われてもネェ」と思い出せない。
すると嫁が、「今年1年頑張りましょう。」と言って、ノンアルのビールで乾杯をしてきた。

「アッ、そうか、今日は結婚記念日だ。すっかり忘れた。アーすまない。俺としたことが。」と嫁に詫びた。
嫁が「去年は私が忘れていたから、あいこだネェ」と笑った。
すると次男が「親父たちは何がきっかけで結婚することになったんだ。」と聞いてきた。
一瞬、下をうつむき、静かに答えた。「魔が差したんだ。」
4月12日正午前、スマホに着信が入る。長島の兄貴からだった。「ケンスケ、マスミが今亡くなった。詳しくは後で連絡する。」と言って電話を切った。
「しまった。14日にお見舞いに行くつもりでいたのに、もっと早く行くべきだった。残念。」すぐ、親戚中に電話で知らせた。
翌13日、天附の杉本夫妻とお悔みに行った。
お通夜が、午後6時だったので、フェリーの便が無くなるとのことで、朝9時40分のフェリーに乗った。
フェリーから、仏様は、自宅か斎場かどちらに安置されているか聞いたら、自宅との事で、自宅に向かった。
マスミさんは安らかな顔で、眠っておられた。
みんなで両手を合わせ、兄貴にお悔みの言葉を述べた。兄貴から、死亡までの経過を聞いた後、次のフェリーの便の時間まで、昔話や思い出話に花が咲いた。兄貴が、帰る時は「ジャガイモを持って行ってくれ。長島のジャガイモはうまかで。」と言ってくれた。そろそろ時間になったので、みんな車に乗り込み、兄貴をはじめ、家族に見送られ、2,3メートル車が動いたところで、杉本さんの嫁さんが、「ア、ジャガイモをもらってない。バック、バックと言いだされた。」少しバックして、窓から首を出して、「ジャガイモを忘れた。」と言ったら、兄貴も慌てて取りに戻り、長女の息子と二人で、コンテナいっぱいのジャガイモを後ろに積んでくれた。
翌14日、朝、長男家族とフェリー乗り場で待ち合わせ、長男の車で行くことになった。すでに親戚の方々も集まっておられた。9時40分のフェリーにみんな乗船し、長島に向かった。
まご娘のツムギも船旅は初めてで、朝早くから起きて楽しみにしていたようだ。客室にじっとしてないで、外に出たり入ったり一時もじっとしていないで、はしゃぎ廻った。


見かねた長男が、3階の甲板に連れて行き、海を眺めさせた。外は天気晴朗なれど、風強しだった。ツムギもとても機嫌が良かった。


蔵之元に着き、一路平尾の斎場へ向かった。斎場では、上筋家の家族や孫たちが迎えてくれた。
葬式じゃないなら再会を喜び合うのだが、今日は挨拶もそこそこに、席に着いた。
マスミさんの遺影の前で、1人憔悴して座っている兄貴の後ろ姿を見ていると、何て話しかけていいか言葉が見つからなかった。

生前楽しかったことが、走馬灯のようによみがえり、懐かしく思い出されていたに違いない。
式も終わり、出棺の運びとなった。生花を渡され、次々に棺の中に添えていく。最後のお別れだ。生花を入れている兄貴の姿を見ていると、子供たちは皆、東京にいるし、最愛の嫁さんには先立たれ、これから長島で1人暮らしていくのかと思うと、可哀想で涙が出てくる。



ここで親戚の人たちは皆帰られた。我が家族だけは、火葬場まで行き、お骨を拾って帰りますと伝えた。
火葬場は、行人岳の中腹にあった。この火葬場、最近でけたのだろう。きれいに整頓され、ホテルのロビーみたいな感じだった。何も知らないツムギは、広い火葬場の周りを、何べんも走り回っていた。



フェリーの時間が近づいてきたので、みんなに見送られて帰路についた。
ツムギは車に乗せた途端、すぐ眠ってしまった。疲れたんだろう。みんなご苦労さんでした。
マスミさんにはエピソードが2つある。
1つは、新婚旅行に旅立つ朝、瀬崎の港まで、俺のライトバンで送って行った。後ろのドアを開け、荷物を下ろした。下ろし終わった兄貴はライトバンの後ろのドアに手をかけた。自分の少し前にマスミさんが立っていたのだが、当たらないと思っていたんだろう。思い切りドアをおろした。
「ゴォーン」と鈍い音がした。俺は一瞬青ざめた。救急車を呼びまいかもと。兄貴はただ謝るばかりで、マスミさんは涙目になって、怒るに怒れないし、そういえばその後、新婚旅行中はどうなったかは聞いてなかったなァー。いや、あれは痛かっただろう。
2つ目は、優子(長女)が幼稚園児の頃、「お母さん、優子もお兄ちゃんみたいなおチンチンが欲しい。」と言ってマスミさんを困らせた。
マスミさんは、マスミさんで、「ハイハイ、今度デパートに行った時、買ってあげるからネ。」と納得させた。俺は、デパートなんかには売ってありませんよーと思っていたが、NHKのグッツに売ってあった。NHKのディレクターと結婚したのだ。これには俺も参った。大事に使えヨ、優子。
笑いは百薬の長
ある女性が、買い物を終えて、スーパーから出てくると、とても長い葬送の列に出くわした。先頭には、2つの棺、そしてその後には200人の女性だけの列が続いて歩いているのである。あまりにも不思議な光景だったので、女性は自分のと同じ年くらいの喪主とおぼしき女性に尋ねた。
「あの、このような時にぶしつけとは思いますが、いったいどなたの葬列なのでしょうか。」喪主の女性は、ちらりと目線を上げ「一番目の棺は私の夫です。長年飼っていた飼い犬に噛み殺されたのです。」
「まァー、それはなんと不幸な」と女性が驚くと、喪主は、言葉を続けた。「二番目の棺は夫の母親です。彼女は夫を助けようとし、やはり同じ犬に嚙み殺されたのです。」その言葉を聞くと、女性は遠慮がちに言った。「あの、よろしければそのワンちゃんを貸してもらえないでしょうか。」
「そしたら、列の最後にお並びください。」
2024年04月01日
さらば天空の碁会所
♪昭和余年は春も宵~桜吹雪けば情も舞う~♪
あがた森魚の赤色エレジーの一節である。若い頃は好んで唄っていた。
春の陽気に誘われて、山々の草花も色めきだって来た今日この頃である。
3月29日、天空の碁会所で月例会があった。
天草市の方針で、社会福祉協議会河浦支所内にある老人福祉センターは、令和6年3月をもって廃止になることが決定した。
ということで、これが最後の月例会になった。最後と言う事で、ゲストとして牛深から元教育長の野田四郎さんも参加され、総勢10名で試合が始まった。私の1回戦の相手は、強敵丸山三段だった。相手にとって不足無し、序盤は黒優勢で進んだが、中盤、黒2目を捨てるか助けるか、悩ましい場面になった。
丸山さんは、助ける方を選んだ。すると中央の黒7目がゲタで取られてしまった。丸山さんの悲鳴が上がった。
後は丸山さんのボヤキを聞きながら押し切ってしまった。局後の検討で、嶋津六段から「2目を捨てらしたら黒優勢だったでしょう。」と指摘されて本人も納得されたようだった。
丸山さんも久保さんの代わりに碁会の進行もし、対局相手の組み合わせもしで、碁に集中ができなかったのでしょう。悔いの残る一局だったに違いない。


私はその後、野田六段を破り、嶋津六段には負け、小川六段に勝ち、3勝1敗で臨んだ最終局は溝口二段だった。「あらーいやな相手だなァー」と思った。この頃負け越しているし、自身も持たれてる相手だ。
序盤、中盤、打ち進んだところで、目算して見ると、15目くらいは良いと楽観したのが悪かった。1ヶ所傷があったのを見つけられた。抵抗するすべがなく、あれよあれよと言う間に、白地が黒地になってしまった。終盤にこういうミスをやってしまうようでは勝つわけがない。結果、私の1目負けである。とんだ伏兵がいたものだ。優勝は島津六段、私は3位で有終の美をかざることが出来なかった。時間も午後5時になったので、みんなで社会福祉協議会河浦支所の皆さんに、「永い間お世話になりました。有難うございました。」と挨拶して、碁会所を出た。
♪戦いすんで日が暮れて~♪
すると桜が六分咲きで夕日に照らされていた。「そうだみんなで記念写真を撮ろう。」と言って、帰るのを待ってもらった。ちょうど居合わせた職員の方が、「私が撮りましょうか」と言って私のスマホを受け取られた。

帰りは丸山さんが、「4月から新しく始まる『コミュニケーションセンター』の場所を教えますので、私の車の後をついて来て下さい。」と言って見に行った。駐車場も広く、桜の木もいっぱい並んでいて静かで環境も良い。
4月からまた楽しみが増える。
笑いは百薬の長
ローマ教皇がイーストコートの観光を終え、リムジンに乗って空港に向かった。
リムジンを一度も運転したことのない教皇は運転手に「一度でいいからしばらく運転を代わってもらえないか」と頼んだ。
教皇の命令には背けない運転手は、教皇と代わり、後部座席に座った。
教皇は高速道路に出た。この車がどれくらいのスピードが出るか試してみたかった。しかし150㎞/hくらい出たところで後ろからパトカーが追いかけて来た。
教皇は路肩に車を止めた。警官は運手席を覗いてみた。
運転手の正体を見た警官は慌てた様子で、「ちょっと待っててください」と言って、無線で署長に連絡した。
「重要な人物を止めてしまいました。どうしたらいいでしょう」
署長「また市長か?」「いいえ、もっと重要な人物です。」
「じゃ、知事か」「いいえもっともっと重要な人物です。」
「じゃ大統領か」「いいえさらに重要な人物です。」
「いったい誰なんだ」「神様だと思います。」
「神様?馬鹿も休み休み言え。」「だって教皇様を運転手にしているんですよ。」
あがた森魚の赤色エレジーの一節である。若い頃は好んで唄っていた。
春の陽気に誘われて、山々の草花も色めきだって来た今日この頃である。
3月29日、天空の碁会所で月例会があった。
天草市の方針で、社会福祉協議会河浦支所内にある老人福祉センターは、令和6年3月をもって廃止になることが決定した。
ということで、これが最後の月例会になった。最後と言う事で、ゲストとして牛深から元教育長の野田四郎さんも参加され、総勢10名で試合が始まった。私の1回戦の相手は、強敵丸山三段だった。相手にとって不足無し、序盤は黒優勢で進んだが、中盤、黒2目を捨てるか助けるか、悩ましい場面になった。
丸山さんは、助ける方を選んだ。すると中央の黒7目がゲタで取られてしまった。丸山さんの悲鳴が上がった。
後は丸山さんのボヤキを聞きながら押し切ってしまった。局後の検討で、嶋津六段から「2目を捨てらしたら黒優勢だったでしょう。」と指摘されて本人も納得されたようだった。
丸山さんも久保さんの代わりに碁会の進行もし、対局相手の組み合わせもしで、碁に集中ができなかったのでしょう。悔いの残る一局だったに違いない。


私はその後、野田六段を破り、嶋津六段には負け、小川六段に勝ち、3勝1敗で臨んだ最終局は溝口二段だった。「あらーいやな相手だなァー」と思った。この頃負け越しているし、自身も持たれてる相手だ。
序盤、中盤、打ち進んだところで、目算して見ると、15目くらいは良いと楽観したのが悪かった。1ヶ所傷があったのを見つけられた。抵抗するすべがなく、あれよあれよと言う間に、白地が黒地になってしまった。終盤にこういうミスをやってしまうようでは勝つわけがない。結果、私の1目負けである。とんだ伏兵がいたものだ。優勝は島津六段、私は3位で有終の美をかざることが出来なかった。時間も午後5時になったので、みんなで社会福祉協議会河浦支所の皆さんに、「永い間お世話になりました。有難うございました。」と挨拶して、碁会所を出た。
♪戦いすんで日が暮れて~♪
すると桜が六分咲きで夕日に照らされていた。「そうだみんなで記念写真を撮ろう。」と言って、帰るのを待ってもらった。ちょうど居合わせた職員の方が、「私が撮りましょうか」と言って私のスマホを受け取られた。

帰りは丸山さんが、「4月から新しく始まる『コミュニケーションセンター』の場所を教えますので、私の車の後をついて来て下さい。」と言って見に行った。駐車場も広く、桜の木もいっぱい並んでいて静かで環境も良い。
4月からまた楽しみが増える。
笑いは百薬の長
ローマ教皇がイーストコートの観光を終え、リムジンに乗って空港に向かった。
リムジンを一度も運転したことのない教皇は運転手に「一度でいいからしばらく運転を代わってもらえないか」と頼んだ。
教皇の命令には背けない運転手は、教皇と代わり、後部座席に座った。
教皇は高速道路に出た。この車がどれくらいのスピードが出るか試してみたかった。しかし150㎞/hくらい出たところで後ろからパトカーが追いかけて来た。
教皇は路肩に車を止めた。警官は運手席を覗いてみた。
運転手の正体を見た警官は慌てた様子で、「ちょっと待っててください」と言って、無線で署長に連絡した。
「重要な人物を止めてしまいました。どうしたらいいでしょう」
署長「また市長か?」「いいえ、もっと重要な人物です。」
「じゃ、知事か」「いいえもっともっと重要な人物です。」
「じゃ大統領か」「いいえさらに重要な人物です。」
「いったい誰なんだ」「神様だと思います。」
「神様?馬鹿も休み休み言え。」「だって教皇様を運転手にしているんですよ。」