2025年03月17日
なべちゃん食堂お別れの会
人の世は必ず始まりがあって、終わりがある。
3月の初め、久保会長から今まで利用させてもらっていた『なべちゃん食堂』が3月いっぱいで閉店されるとのことを聞いた。
「え、なんで」「建物が古いからオーナーが解体に踏み切られたようだ。」


私は昔のことはよくわからんが、ここは前は、映画館だったそうで、その後パチンコ店になり、『なべちゃん食堂』に至ったようだ。
私も河浦碁会に入れてもらってなかったら、全然知らない世界だった。
春と秋、年2回ぐらいは利用させてもらっていた。
私もここは気に入っていた。70歳、80歳過ぎたおじさん達が集まって飲む機会はそうはない。囲碁のなせる業だろう。
「じゃ、お別れ会を開きましょう。」と言うことで、3月13日、午後6時に決まった。当日は久保さんに迎えに来てもらった。牛深からは3名、河浦は4名、計7名。丸山さん、田口さん、崎本謹ちゃんが都合で来れなかったのが残念だった。
嶋津ご住職の音頭で乾杯し、飲み会が始まった。




いつも。大江の魚屋さんから、刺身は来るのだが、この日はスーパーゼロの刺身だった。これはこれで美味かった。
飲みながら話題は、メジャーリーガーの大谷の開幕戦と、天草の囲碁人記で盛り上がった。天草では、誰が強かったでしょうという話になった。
中鋪さん、森田教育長、松岡さん、沖崎さん。無量寺の春光さん、岩崎3兄弟と、次々に名前が出てくる。「あれ、誰か1人忘れてはいませんかってんだ?」松崎さん、野田さん、横山さんが出て来た。「もうそろそろ俺の名前が出て来てもいいころだが」、なかなか出て来ない。「ありゃ、この人たちは、詳しいようで、詳しくないなァ」「頼むから何事も心配しないで、胸に手を当てて思い出してくれよー」「後はどんぐりの背比べ、一山いくらのガリガリ亡者ばかりだ。」「くそっー、とうとガリガリ亡者にしてしまったかァ、嫌な人たちと出会ったよ。来るんじゃなかった。」
宴も終わりに近づいて来たので、ママさんを囲み記念写真を撮らせてもらった。最後に俺が『磯節し』を唄った。みんなで手拍子で場を盛り上げた。溝口さんも負けじと唄い出された。






いいお別れ会だった。壁には、他のお客さんからの感謝のメッセージが掛けてあった。

長い間、町民の皆様から支えられ、愛されて来たんだなァーとメッセージから感じ取れた。
ここに男の隠れ家が、また一つ消えていくのは寂しい限りだ。
「なべちゃん食堂、長い間ご苦労様でした。ママさんありがとう!」
3月の初め、久保会長から今まで利用させてもらっていた『なべちゃん食堂』が3月いっぱいで閉店されるとのことを聞いた。
「え、なんで」「建物が古いからオーナーが解体に踏み切られたようだ。」


私は昔のことはよくわからんが、ここは前は、映画館だったそうで、その後パチンコ店になり、『なべちゃん食堂』に至ったようだ。
私も河浦碁会に入れてもらってなかったら、全然知らない世界だった。
春と秋、年2回ぐらいは利用させてもらっていた。
私もここは気に入っていた。70歳、80歳過ぎたおじさん達が集まって飲む機会はそうはない。囲碁のなせる業だろう。
「じゃ、お別れ会を開きましょう。」と言うことで、3月13日、午後6時に決まった。当日は久保さんに迎えに来てもらった。牛深からは3名、河浦は4名、計7名。丸山さん、田口さん、崎本謹ちゃんが都合で来れなかったのが残念だった。
嶋津ご住職の音頭で乾杯し、飲み会が始まった。




いつも。大江の魚屋さんから、刺身は来るのだが、この日はスーパーゼロの刺身だった。これはこれで美味かった。
飲みながら話題は、メジャーリーガーの大谷の開幕戦と、天草の囲碁人記で盛り上がった。天草では、誰が強かったでしょうという話になった。
中鋪さん、森田教育長、松岡さん、沖崎さん。無量寺の春光さん、岩崎3兄弟と、次々に名前が出てくる。「あれ、誰か1人忘れてはいませんかってんだ?」松崎さん、野田さん、横山さんが出て来た。「もうそろそろ俺の名前が出て来てもいいころだが」、なかなか出て来ない。「ありゃ、この人たちは、詳しいようで、詳しくないなァ」「頼むから何事も心配しないで、胸に手を当てて思い出してくれよー」「後はどんぐりの背比べ、一山いくらのガリガリ亡者ばかりだ。」「くそっー、とうとガリガリ亡者にしてしまったかァ、嫌な人たちと出会ったよ。来るんじゃなかった。」
宴も終わりに近づいて来たので、ママさんを囲み記念写真を撮らせてもらった。最後に俺が『磯節し』を唄った。みんなで手拍子で場を盛り上げた。溝口さんも負けじと唄い出された。






いいお別れ会だった。壁には、他のお客さんからの感謝のメッセージが掛けてあった。

長い間、町民の皆様から支えられ、愛されて来たんだなァーとメッセージから感じ取れた。
ここに男の隠れ家が、また一つ消えていくのは寂しい限りだ。
「なべちゃん食堂、長い間ご苦労様でした。ママさんありがとう!」
2025年03月09日
木山初市最終回
「冬来たりなば春遠からじ」暦の上では春だが、まだまだ寒い日が続いている。奈良東大寺の二月堂のお水取りは、3月12日である。それが終わらないと本格的な春は来ないらしい。
3月1日と2日は益城町の木山初市だった。ここに出店するようになってから、18年近くになる。その間いろいろな人と出会い、知り合いになったり仲間になったり、沢山の人脈ができた。
18年の間には、私も嫁も大きな手術をし現在に至っているが、歳も70歳越えるとあちこちとガタがきて泊りがけのイベントがきつくなってきた。
今年を最後に、お世話になった皆さんにお礼がちら行くことにした。
朝から曇っていたが、イベント会場に着くと晴れて来てテントの中まで日が差し込んできた。陳列していた商品に日が当たって来たので、売り台を後ろに下げた。ステージで催しが始まった。
我々の店にもお客さんが入れ代わり立ち代わり買いに来てくれた。
そして毎年たくさん買って下さる古賀先生が来られた。
この人は昔、牛高の教員をしておられた。その頃私が、石酔会の幹事をやっていた頃、一緒に碁を打ったり、飲んだりした仲間だった。
熊本地震前までは、ここ木山通りの中央に木山座があった。先生が私の所の蒲鉾を買ってくれ、「ちょこっと打って行かんね。木山座の2階で今碁会をやっているから。」と言って、オレを引っ張っていかれた。
木山座の前では、婦人部が『市だご』を販売していた。そこにはずらっと行列が出来ていた。それを横目に二階へ上がり、先生が紹介して下さり、打たせてもらった。当時は五段で打ったのだが、次々と向かって来るのだが、みんなやられる。院生くずれとか、六段が向かって来るけど、負かしてしまった。「オーイ、県代クラスのだれだれさんを呼んでこーい」とあたかも道場破りが来たような騒ぎだった。
「あッ、俺はここには仕事で来てたんだ。」と我に返り、急いで仲間のテントの所へ帰った。
「あんた、いつまでしといと、仕事はほったらかして。」嫁はご立腹だった。
今年もたくさん買って頂いた。「先生、今年で最後になります。記念に写真をお願いします。」と言って、撮らせてもらった。

今年も、「釣りはいらん」と言って、一万円を置いて行かれた。
ステージでは、ペルーの音楽が演奏されていた。
「コンドルは飛んで行く」この曲は好きである。 本場の人達が演奏してるかと思ったが、日本人だった。

レポーターの樫山結さんが私のテントの前で蒲鉾を紹介してくれた。

また、お客さんもテレビ見ましたという人が多くいて、今年は今までで一番売れたようだ。

夕方帰り支度をしていたら、雨が降り出した。その日は男の隠れ家、ビジネスホテル「こめや」に泊まった。4時ごろこめやに電話を入れた。「今日は私の誕生日なので、刺身とかできますか?」と、「今日はあいにくお客がいっぱいで、手が回りません」との返事だった。仕方ないか。こめやにも手土産をもってチェックインした。
夕食時間になったので、食堂に行ってみると、「今日はすみませんネ。誕生日の方はどちらさんですか。」と「私です」と言うと、「鶏の唐揚げを多めにしときました。」と言って3人分持って来られた。
一瞬、我々は目が点になり、言葉を失った。気を失いそうになった。息子が言った。「この人は宗教上の理由で、鶏肉と豚肉は食べないんですよ。」と、女将さんには気の毒ではあったが、食べれないものは食べれない。
「カキとナマコがありますが、どちらがいいですか」「カキでお願いします」それから、ウナギの竜田揚げも出して下さった。
少し気を良くし、3人で74歳の誕生日を祝った。


その日は若女将が休みだった。おられたらオレの好みは知っておられたものを。
翌日、朝から少し雨が降っていた。朝食を食べている間には止んだ。昼から晴れ上がり、木山座の前は人だかりだった。

ステージでは餅投げならぬ、豆投げがあっていた。

古賀先生、お茶の富澤さん、清水の親分、商工会の担当者にお別れの挨拶をし、来年からは息子たちが来ますが、これまで同様よろしくお願い申し上げます。長い間有難うございました。
追伸
♪明かりをつけましょボンボリに、お花を上げましょ桃の花♪
孫娘のひな祭りが質素に行われた。


3月1日と2日は益城町の木山初市だった。ここに出店するようになってから、18年近くになる。その間いろいろな人と出会い、知り合いになったり仲間になったり、沢山の人脈ができた。
18年の間には、私も嫁も大きな手術をし現在に至っているが、歳も70歳越えるとあちこちとガタがきて泊りがけのイベントがきつくなってきた。
今年を最後に、お世話になった皆さんにお礼がちら行くことにした。
朝から曇っていたが、イベント会場に着くと晴れて来てテントの中まで日が差し込んできた。陳列していた商品に日が当たって来たので、売り台を後ろに下げた。ステージで催しが始まった。
我々の店にもお客さんが入れ代わり立ち代わり買いに来てくれた。
そして毎年たくさん買って下さる古賀先生が来られた。
この人は昔、牛高の教員をしておられた。その頃私が、石酔会の幹事をやっていた頃、一緒に碁を打ったり、飲んだりした仲間だった。
熊本地震前までは、ここ木山通りの中央に木山座があった。先生が私の所の蒲鉾を買ってくれ、「ちょこっと打って行かんね。木山座の2階で今碁会をやっているから。」と言って、オレを引っ張っていかれた。
木山座の前では、婦人部が『市だご』を販売していた。そこにはずらっと行列が出来ていた。それを横目に二階へ上がり、先生が紹介して下さり、打たせてもらった。当時は五段で打ったのだが、次々と向かって来るのだが、みんなやられる。院生くずれとか、六段が向かって来るけど、負かしてしまった。「オーイ、県代クラスのだれだれさんを呼んでこーい」とあたかも道場破りが来たような騒ぎだった。
「あッ、俺はここには仕事で来てたんだ。」と我に返り、急いで仲間のテントの所へ帰った。
「あんた、いつまでしといと、仕事はほったらかして。」嫁はご立腹だった。
今年もたくさん買って頂いた。「先生、今年で最後になります。記念に写真をお願いします。」と言って、撮らせてもらった。

今年も、「釣りはいらん」と言って、一万円を置いて行かれた。
ステージでは、ペルーの音楽が演奏されていた。
「コンドルは飛んで行く」この曲は好きである。 本場の人達が演奏してるかと思ったが、日本人だった。

レポーターの樫山結さんが私のテントの前で蒲鉾を紹介してくれた。

また、お客さんもテレビ見ましたという人が多くいて、今年は今までで一番売れたようだ。

夕方帰り支度をしていたら、雨が降り出した。その日は男の隠れ家、ビジネスホテル「こめや」に泊まった。4時ごろこめやに電話を入れた。「今日は私の誕生日なので、刺身とかできますか?」と、「今日はあいにくお客がいっぱいで、手が回りません」との返事だった。仕方ないか。こめやにも手土産をもってチェックインした。
夕食時間になったので、食堂に行ってみると、「今日はすみませんネ。誕生日の方はどちらさんですか。」と「私です」と言うと、「鶏の唐揚げを多めにしときました。」と言って3人分持って来られた。
一瞬、我々は目が点になり、言葉を失った。気を失いそうになった。息子が言った。「この人は宗教上の理由で、鶏肉と豚肉は食べないんですよ。」と、女将さんには気の毒ではあったが、食べれないものは食べれない。
「カキとナマコがありますが、どちらがいいですか」「カキでお願いします」それから、ウナギの竜田揚げも出して下さった。
少し気を良くし、3人で74歳の誕生日を祝った。


その日は若女将が休みだった。おられたらオレの好みは知っておられたものを。
翌日、朝から少し雨が降っていた。朝食を食べている間には止んだ。昼から晴れ上がり、木山座の前は人だかりだった。

ステージでは餅投げならぬ、豆投げがあっていた。

古賀先生、お茶の富澤さん、清水の親分、商工会の担当者にお別れの挨拶をし、来年からは息子たちが来ますが、これまで同様よろしくお願い申し上げます。長い間有難うございました。
追伸
♪明かりをつけましょボンボリに、お花を上げましょ桃の花♪
孫娘のひな祭りが質素に行われた。

