2022年05月16日

強情だが、少し優しい床屋さん

♪夏も近づく八十八夜~野にも山にも馬鹿馬鹿シゲル~♪
幼い頃は、唄の内容も知らず、良く唄った。シゲルという名の人がおられたらゆるされよ!
八十八夜は過ぎたけれど、我が工場には、色々な花が咲き始めている。五月、カーネーション、アジサイ等々、特に五月は昨年、行きつけの床屋さんから、頂いた代物だ。



友情の証として、大事に育てて来た。その甲斐あって今年も花が咲いてくれた。
この床屋さんは堅物で通っている。強情ぷりは冷えた焼き餅みたいに固く曲がったことが大嫌いときている。
釣り針でも、真直な釣り針しか使わないというから、それはもう大変な堅物である。
そんな人から頂いた「五月」だ。枯れかしでもしたら、浅野内匠頭じゃないが、腹切ってお詫び申し上げねばなるまい。
そんな床屋さんだが、囲碁好きで週3回は、打ちに寄らせてもらっている。




「何!どちらが強いかってか?」
「それは、弁慶と野見宿禰(のみのすくね)が相撲を取ったら、どちらが強いかって、聞いているようなものだ。いい勝負でしょう。」

ゴールデンウイークも終わり、平常な日々に戻った。
5月1日は、第1回『町おこし南風マルシェ』が、海彩館の中の広場で行われた。パットパットゴルフ、ウォークラリー、ミニバレーなど行われたが、ミニバレーは参加チームが少なく、中止になった。昼からは餅投げなどもあり、結構人も集まった。






当店も出店し、そこそこ売り上げる事ができた。
毎月じゃなくても、3ヶ月に1回くらいでもあると町おこしにもなるんじゃないかと思うけど、1回きりで終わるかもしれない。

さて、近頃はツムギに会っていない。5月から、保育園に行くようになったので、工場にはなかなか来る機会がない。しかし今は便利な世の中になった。LINEで写真や動画が逐次送られてくる。
生まれて初めて、前髪を切ってもらった。



可愛いネー。
オッ、女コックさんの真似かい、



頭にかぶっているものは、パンパースじゃないのかい。
何に、まだまだ芸は出来るだと、ぜひやってみせてくれぃ!
ウルトラマンかァ。



オッそれは誰だ「明石家さんま」



それは?「変顔のクシャクシャオジサン」




エーッ、リモコンも操作できるのかァー。



いいネー、素晴らしい、最高ー。
まだ生まれて9ヶ月しか経たないのにもうユーモアのセンスがあるとは、将来が楽しみだ。
早くしゃべれるようになってくれー。  


Posted by 貝川蒲鉾店  at 21:00Comments(1)

2022年05月08日

『母の日にささげる鎮魂歌』

♪母がまだ~若い頃~僕の手を引いて~この坂を登るたび~ため息をついた~♪

今年もまた母の日が来てしまった。
あれは20年前の事だった。カマボコ屋にとっては、年末はかき入れ時で、1年の内でも一番忙しい時期だった。
おふくろも作業服を着て手伝ってくれていた。




注文が毎日毎日来るので、休む間もなく仕事に明け暮れていた。
母は、血圧と心臓肥大と不整脈の薬を飲んでいた。仕事中は時々手を休め、深い溜息をついていた。
「きつかれば、自分で休むだろう」と、自由にさせていた。
ある日、その日は朝4時からの仕事だったので、いつものように工場に行った。すると、いつも真暗な工場に電気がついていた。
しかもドアも開いたままになっていた。「うん?おかしい」一抹の不安が頭をよぎった。車を駐車場に置いて、急いで中へ入ってみた。
すると、おふくろが、箸を握ったまま倒れていた。テーブルの上には、夕べ嫁が用意したご飯とおかずが置かれていた。
一口二口食べて、そのまま倒れたんだろう。慌てて119番にTELした。
意識は少しあったが、額に傷があり、少し血が出ていた。椅子からそのまま倒れたんだろう。すぐ救急車が来て、市民病院に運んでもらい、CTを撮ってもらった。
その間、おばさんと嫁に連絡し、病院に来てもらった。
結果は、脳出血で、頭の3分の1まで出血が広がっていた。
医者の説明では、「倒れてから、17時間は経過している。もう少し早ければ助かる可能性はあったかもしれないが、おそらく助からないでしょう。」と、「オーマイ、ゴッド」なんてこった!
俺は昨日、仕事が終わってから、行きつけの『あんま』さんに肩と腰を揉んでもらいに行っていた。帰りにあんまさんが、「キダコの湯ぶきは食べますか。」と1パック頂いた。おふくろが好きだから、食べさせようと思ってもらってきた。
帰りは7時過ぎていたので、明日でもいいかと思って、工場には帰らなかった。その時帰っていればと、悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。

♪運が良いとか悪いとか~人は時々、口にするけど、そうーゆう事って確かにあると、あなたを見ていてそう思う~♪
我に返り、今日の仕事を片付けてしまわなくてはいけないと思い、後は嫁とおばさんに任せ、工場に帰った。仕事をしながら、もう助からないなら、ああしとけば良かった。こうしとけば良かったと親不孝を後悔して、涙がボロボロと出て来た。
仕事を終え、病院に行った。言葉はしゃべれないが、耳は聞こえていた。こちらの言葉にうなずきはしていた。いろいろしゃべろうと思っていたが、相部屋で、隣のベッドの患者の容体が悪くなり、医者、看護師、家族などが、大声を出しながら、慌ただしく救命治療を施していた。
「スミマセンが、部屋の外に出とってもらえないでしょうか。」と看護師が言ったので、廊下に出た。廊下からおふくろのベッドを見ていたら、右手で掛け布団を胸の所まで引き上げそのまま眠りについた。
あれが最後の別れとなった。その後、人工呼吸器をつけ、口からチューブを入れた。脳死状態で、心臓だけが動いていた。
人工呼吸器からの心拍音は不整脈の音で不規則に流れている。
入院5日目、植物人間の状態が続いている。決断を迫られた。
「おふくろすまない。チューブを抜かせてもらうよ」と心で詫びながら医者に人工呼吸器を止めてもらった。
大正12年7月11日生まれ、平成13年12月26日死去。享年78歳の生涯を閉じた。

火葬場で荼毘に付す時、外に出たら、朝の空に綺麗な虹がかかっていた。
みんな口々に「アーおばさんが今天国に行かったばいなー、おばさんは人の良かったでなァ」と言ったので、思わず涙が出て来た。
貧乏を常として来た母は、決して贅沢はせず、質素で倹約家だった。おふくろに怒られた事はなく、大声を出して人と言い争うことはなかった。とても温厚だった。





大阪万博に行った時、京都に立ち寄った。お土産に西陣織の財布をおふくろに買って来たら、それはそれは大変喜んで、一生大事にしていた。
俺が、母親にプレゼントしたのは、後にも先にもこれが最初で最後だった。あなたの子供で良かった。
今でも誇りに思っています。

♪忍ぶ忍ばず無縁坂ー、かみしめるよーなーささやーかな僕の、母の人生~♪  


Posted by 貝川蒲鉾店  at 21:17Comments(0)