2024年06月26日
石酔会の興亡と「父の日」
♪親父みたいなヨ~酒飲~みなあどうに~ならぬつ~もりがなっていたァ~♪
また今年も父の日がやって来た。うちの親父は、酒は下戸で飲まなかったが、オレは中学生の頃から飲んでいた。その頃の一番の友達だった祐の字は社会人となり、漁師になっていた。
月の夜や、盆、正月には、祐ちゃんの家に集まり、皆で飲んでいた。
おふくろさんは、祐ちゃんを慕って来る仲間の為に、嫌な顔もせず、酒やつまみを用意して下さっていた。今でも感謝しています。
20歳過ぎたころ、囲碁を覚え、中央公園の横の岩佐碁会所に通うようになった。そこでいろいろな人と出会うことになった。
そこの碁会所の中で、常連客の皆さんに当時五段だった岩崎公利さんが、碁の勉強会の参加者を募った。
十数名が集まった。碁の好きな人たちが集まり、個人の家とかでも集まって勉強会をやっていた。その後は必ずといっていいくらい飲み会になっていた。そうしていると、「この会の名前をつけよう」と言うことで、名前を募った。そしたら、野田四郎さんが、「皆さん飲むのが好きな方ばっかりなので、石が酔う会、石酔会はどうだろ」と提案された。一同文句なしで決まった。
当時牛深棋友会という町全体の会があって、石酔会のメンバーは棋友会に入っていることが条件だった。私が25,6歳の頃だった。
初代会長に、佐々木亦男二段がなられた。二代目は、市役所の太田定三段、三代目平田健二二段、皆さん酒豪ばっかりだ。オレが一番年齢も若く、いつもパシリ役だった。でも夜になると、「貝川、飲みに行くぞ」とか、「ここの飲み屋にいるから出て来い」とか、いつも電話がかかって来ていた。でも嫌いではなかったので、光の速さで出かけていったものだ。
私が30歳の頃、一番年下なので、幹事長を任された。
冠婚葬祭の金額、忘年会や旅行の手配、二次会、三次会の集金、入会者の歓迎会などなど、所帯も20数名になった。その中に、警察署長、海上保安庁の署長、保健所の次長、小中学校の校長とかも名を連ねられていた。警察や海上保安庁の署長さんが、「貝川さん、一局教えてもらえないでしょうか」と言われて、碁盤に黒石を置かれるのを見ると、囲碁冥利に尽きると思った。
その後、50歳過ぎるまで、20年間も一人で切り盛りして運営して来た。
その間、初代会長、二代目は、還暦を過ぎて亡くなられた。三代目の平田さんも72歳で亡くなられた。そうしたら、棋友会の会長が、俺の知らない所で、根回しをして、石酔会をつぶしにかかった。オレは頭に来たが、時すでに遅しで、どうすることも出来なかった。だから、その場で棋友会を脱退した。
主になる人がいなくなると、お家騒動が起きるという事は本当だった。
その後、祐ちゃんも吉田一久さんも、鬼籍の人になり、黄泉の国へ旅立たれた。
6月16日、工場で留守番をしていると、ツムギがやってきて「はい、どうぞ」と言って、紙の下げ袋を渡した。中を見てみると、「半袖のシャツ」が入っていた。「うわぁー父の日のプレゼントや、ありがとうね」と言って、ハイタッチをした。


6月上旬に葬儀の御礼のカタログギフトが送って来た。
何を選ぼうかとパラパラめくったら、酒があった。迷わず岡山の酒を注文した。そしたら、6月16日、父の日にそれが届いた。ラッキーと思った。
その日は嫁と、公志はとれたて市場へ店頭販売に行ってた。
「公志!酒が届いた。川床さんの2000円の刺身を買って来てくれ。」と電話を入れる。オレは今夜の為に酒を冷蔵庫で冷やした。
夕方家族でささやかな父の日を祝った。


風呂場事件以来、焼酎も酒も飲んでいない。冷えた大吟醸を湯吞みに注ぐ。

少しだけ「匂い」をかぎ、一口だけ喉元に流してやる。すーと入っていき、やがて五臓六腑に染み渡っていく。大吟醸酒だ。まずいわけがない。
こうして、今年も家族からぐうたらな父の日を祝ってもらう事ができた。謝々。
笑いは百薬の長
紀元前、中国の孔子は、弟子からある質問をされた。
「先生、処女を貴重だと思う男は多いですよね。」「そのとおりだ」
「しかし、童貞は女に気持ち悪がられるのはおかしいじゃないですか」「確かに」
「なぜこのような違いが男と女では生まれるのでしょうか」この弟子の質問に、孔子は答えた。
「それは、一度も侵入を許したことのない砦は頼もしく、一度も侵入に成功しない兵士は頼もしくないからだ。」
「なるほど、先生のおっしゃる通りですね。では、30年も侵入を許してない砦は頼もしいという事でしょうか?」
「いや、その砦は侵入する価値が無いんだよ!」
また今年も父の日がやって来た。うちの親父は、酒は下戸で飲まなかったが、オレは中学生の頃から飲んでいた。その頃の一番の友達だった祐の字は社会人となり、漁師になっていた。
月の夜や、盆、正月には、祐ちゃんの家に集まり、皆で飲んでいた。
おふくろさんは、祐ちゃんを慕って来る仲間の為に、嫌な顔もせず、酒やつまみを用意して下さっていた。今でも感謝しています。
20歳過ぎたころ、囲碁を覚え、中央公園の横の岩佐碁会所に通うようになった。そこでいろいろな人と出会うことになった。
そこの碁会所の中で、常連客の皆さんに当時五段だった岩崎公利さんが、碁の勉強会の参加者を募った。
十数名が集まった。碁の好きな人たちが集まり、個人の家とかでも集まって勉強会をやっていた。その後は必ずといっていいくらい飲み会になっていた。そうしていると、「この会の名前をつけよう」と言うことで、名前を募った。そしたら、野田四郎さんが、「皆さん飲むのが好きな方ばっかりなので、石が酔う会、石酔会はどうだろ」と提案された。一同文句なしで決まった。
当時牛深棋友会という町全体の会があって、石酔会のメンバーは棋友会に入っていることが条件だった。私が25,6歳の頃だった。
初代会長に、佐々木亦男二段がなられた。二代目は、市役所の太田定三段、三代目平田健二二段、皆さん酒豪ばっかりだ。オレが一番年齢も若く、いつもパシリ役だった。でも夜になると、「貝川、飲みに行くぞ」とか、「ここの飲み屋にいるから出て来い」とか、いつも電話がかかって来ていた。でも嫌いではなかったので、光の速さで出かけていったものだ。
私が30歳の頃、一番年下なので、幹事長を任された。
冠婚葬祭の金額、忘年会や旅行の手配、二次会、三次会の集金、入会者の歓迎会などなど、所帯も20数名になった。その中に、警察署長、海上保安庁の署長、保健所の次長、小中学校の校長とかも名を連ねられていた。警察や海上保安庁の署長さんが、「貝川さん、一局教えてもらえないでしょうか」と言われて、碁盤に黒石を置かれるのを見ると、囲碁冥利に尽きると思った。
その後、50歳過ぎるまで、20年間も一人で切り盛りして運営して来た。
その間、初代会長、二代目は、還暦を過ぎて亡くなられた。三代目の平田さんも72歳で亡くなられた。そうしたら、棋友会の会長が、俺の知らない所で、根回しをして、石酔会をつぶしにかかった。オレは頭に来たが、時すでに遅しで、どうすることも出来なかった。だから、その場で棋友会を脱退した。
主になる人がいなくなると、お家騒動が起きるという事は本当だった。
その後、祐ちゃんも吉田一久さんも、鬼籍の人になり、黄泉の国へ旅立たれた。
6月16日、工場で留守番をしていると、ツムギがやってきて「はい、どうぞ」と言って、紙の下げ袋を渡した。中を見てみると、「半袖のシャツ」が入っていた。「うわぁー父の日のプレゼントや、ありがとうね」と言って、ハイタッチをした。


6月上旬に葬儀の御礼のカタログギフトが送って来た。
何を選ぼうかとパラパラめくったら、酒があった。迷わず岡山の酒を注文した。そしたら、6月16日、父の日にそれが届いた。ラッキーと思った。
その日は嫁と、公志はとれたて市場へ店頭販売に行ってた。
「公志!酒が届いた。川床さんの2000円の刺身を買って来てくれ。」と電話を入れる。オレは今夜の為に酒を冷蔵庫で冷やした。
夕方家族でささやかな父の日を祝った。


風呂場事件以来、焼酎も酒も飲んでいない。冷えた大吟醸を湯吞みに注ぐ。

少しだけ「匂い」をかぎ、一口だけ喉元に流してやる。すーと入っていき、やがて五臓六腑に染み渡っていく。大吟醸酒だ。まずいわけがない。
こうして、今年も家族からぐうたらな父の日を祝ってもらう事ができた。謝々。
笑いは百薬の長
紀元前、中国の孔子は、弟子からある質問をされた。
「先生、処女を貴重だと思う男は多いですよね。」「そのとおりだ」
「しかし、童貞は女に気持ち悪がられるのはおかしいじゃないですか」「確かに」
「なぜこのような違いが男と女では生まれるのでしょうか」この弟子の質問に、孔子は答えた。
「それは、一度も侵入を許したことのない砦は頼もしく、一度も侵入に成功しない兵士は頼もしくないからだ。」
「なるほど、先生のおっしゃる通りですね。では、30年も侵入を許してない砦は頼もしいという事でしょうか?」
「いや、その砦は侵入する価値が無いんだよ!」
Posted by 貝川蒲鉾店
at 21:08
│Comments(1)
この記事へのコメント
孫ちゃんからの父の日のプレゼントよかったですね。牛深碁友会も長い歴史、エピソードがありますよ。貝川さんにいつも勝ったと思っても大逆転される理由が分かったような気がします。これからもご指導よろしくお願いいたします。それにしても、酒のつまみは、刺身が最高ですね。
Posted by まるじゅん at 2024年07月01日 06:43