2022年05月08日
『母の日にささげる鎮魂歌』
♪母がまだ~若い頃~僕の手を引いて~この坂を登るたび~ため息をついた~♪
今年もまた母の日が来てしまった。
あれは20年前の事だった。カマボコ屋にとっては、年末はかき入れ時で、1年の内でも一番忙しい時期だった。
おふくろも作業服を着て手伝ってくれていた。


注文が毎日毎日来るので、休む間もなく仕事に明け暮れていた。
母は、血圧と心臓肥大と不整脈の薬を飲んでいた。仕事中は時々手を休め、深い溜息をついていた。
「きつかれば、自分で休むだろう」と、自由にさせていた。
ある日、その日は朝4時からの仕事だったので、いつものように工場に行った。すると、いつも真暗な工場に電気がついていた。
しかもドアも開いたままになっていた。「うん?おかしい」一抹の不安が頭をよぎった。車を駐車場に置いて、急いで中へ入ってみた。
すると、おふくろが、箸を握ったまま倒れていた。テーブルの上には、夕べ嫁が用意したご飯とおかずが置かれていた。
一口二口食べて、そのまま倒れたんだろう。慌てて119番にTELした。
意識は少しあったが、額に傷があり、少し血が出ていた。椅子からそのまま倒れたんだろう。すぐ救急車が来て、市民病院に運んでもらい、CTを撮ってもらった。
その間、おばさんと嫁に連絡し、病院に来てもらった。
結果は、脳出血で、頭の3分の1まで出血が広がっていた。
医者の説明では、「倒れてから、17時間は経過している。もう少し早ければ助かる可能性はあったかもしれないが、おそらく助からないでしょう。」と、「オーマイ、ゴッド」なんてこった!
俺は昨日、仕事が終わってから、行きつけの『あんま』さんに肩と腰を揉んでもらいに行っていた。帰りにあんまさんが、「キダコの湯ぶきは食べますか。」と1パック頂いた。おふくろが好きだから、食べさせようと思ってもらってきた。
帰りは7時過ぎていたので、明日でもいいかと思って、工場には帰らなかった。その時帰っていればと、悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。
♪運が良いとか悪いとか~人は時々、口にするけど、そうーゆう事って確かにあると、あなたを見ていてそう思う~♪
我に返り、今日の仕事を片付けてしまわなくてはいけないと思い、後は嫁とおばさんに任せ、工場に帰った。仕事をしながら、もう助からないなら、ああしとけば良かった。こうしとけば良かったと親不孝を後悔して、涙がボロボロと出て来た。
仕事を終え、病院に行った。言葉はしゃべれないが、耳は聞こえていた。こちらの言葉にうなずきはしていた。いろいろしゃべろうと思っていたが、相部屋で、隣のベッドの患者の容体が悪くなり、医者、看護師、家族などが、大声を出しながら、慌ただしく救命治療を施していた。
「スミマセンが、部屋の外に出とってもらえないでしょうか。」と看護師が言ったので、廊下に出た。廊下からおふくろのベッドを見ていたら、右手で掛け布団を胸の所まで引き上げそのまま眠りについた。
あれが最後の別れとなった。その後、人工呼吸器をつけ、口からチューブを入れた。脳死状態で、心臓だけが動いていた。
人工呼吸器からの心拍音は不整脈の音で不規則に流れている。
入院5日目、植物人間の状態が続いている。決断を迫られた。
「おふくろすまない。チューブを抜かせてもらうよ」と心で詫びながら医者に人工呼吸器を止めてもらった。
大正12年7月11日生まれ、平成13年12月26日死去。享年78歳の生涯を閉じた。
火葬場で荼毘に付す時、外に出たら、朝の空に綺麗な虹がかかっていた。
みんな口々に「アーおばさんが今天国に行かったばいなー、おばさんは人の良かったでなァ」と言ったので、思わず涙が出て来た。
貧乏を常として来た母は、決して贅沢はせず、質素で倹約家だった。おふくろに怒られた事はなく、大声を出して人と言い争うことはなかった。とても温厚だった。



大阪万博に行った時、京都に立ち寄った。お土産に西陣織の財布をおふくろに買って来たら、それはそれは大変喜んで、一生大事にしていた。
俺が、母親にプレゼントしたのは、後にも先にもこれが最初で最後だった。あなたの子供で良かった。
今でも誇りに思っています。
♪忍ぶ忍ばず無縁坂ー、かみしめるよーなーささやーかな僕の、母の人生~♪
今年もまた母の日が来てしまった。
あれは20年前の事だった。カマボコ屋にとっては、年末はかき入れ時で、1年の内でも一番忙しい時期だった。
おふくろも作業服を着て手伝ってくれていた。


注文が毎日毎日来るので、休む間もなく仕事に明け暮れていた。
母は、血圧と心臓肥大と不整脈の薬を飲んでいた。仕事中は時々手を休め、深い溜息をついていた。
「きつかれば、自分で休むだろう」と、自由にさせていた。
ある日、その日は朝4時からの仕事だったので、いつものように工場に行った。すると、いつも真暗な工場に電気がついていた。
しかもドアも開いたままになっていた。「うん?おかしい」一抹の不安が頭をよぎった。車を駐車場に置いて、急いで中へ入ってみた。
すると、おふくろが、箸を握ったまま倒れていた。テーブルの上には、夕べ嫁が用意したご飯とおかずが置かれていた。
一口二口食べて、そのまま倒れたんだろう。慌てて119番にTELした。
意識は少しあったが、額に傷があり、少し血が出ていた。椅子からそのまま倒れたんだろう。すぐ救急車が来て、市民病院に運んでもらい、CTを撮ってもらった。
その間、おばさんと嫁に連絡し、病院に来てもらった。
結果は、脳出血で、頭の3分の1まで出血が広がっていた。
医者の説明では、「倒れてから、17時間は経過している。もう少し早ければ助かる可能性はあったかもしれないが、おそらく助からないでしょう。」と、「オーマイ、ゴッド」なんてこった!
俺は昨日、仕事が終わってから、行きつけの『あんま』さんに肩と腰を揉んでもらいに行っていた。帰りにあんまさんが、「キダコの湯ぶきは食べますか。」と1パック頂いた。おふくろが好きだから、食べさせようと思ってもらってきた。
帰りは7時過ぎていたので、明日でもいいかと思って、工場には帰らなかった。その時帰っていればと、悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。
♪運が良いとか悪いとか~人は時々、口にするけど、そうーゆう事って確かにあると、あなたを見ていてそう思う~♪
我に返り、今日の仕事を片付けてしまわなくてはいけないと思い、後は嫁とおばさんに任せ、工場に帰った。仕事をしながら、もう助からないなら、ああしとけば良かった。こうしとけば良かったと親不孝を後悔して、涙がボロボロと出て来た。
仕事を終え、病院に行った。言葉はしゃべれないが、耳は聞こえていた。こちらの言葉にうなずきはしていた。いろいろしゃべろうと思っていたが、相部屋で、隣のベッドの患者の容体が悪くなり、医者、看護師、家族などが、大声を出しながら、慌ただしく救命治療を施していた。
「スミマセンが、部屋の外に出とってもらえないでしょうか。」と看護師が言ったので、廊下に出た。廊下からおふくろのベッドを見ていたら、右手で掛け布団を胸の所まで引き上げそのまま眠りについた。
あれが最後の別れとなった。その後、人工呼吸器をつけ、口からチューブを入れた。脳死状態で、心臓だけが動いていた。
人工呼吸器からの心拍音は不整脈の音で不規則に流れている。
入院5日目、植物人間の状態が続いている。決断を迫られた。
「おふくろすまない。チューブを抜かせてもらうよ」と心で詫びながら医者に人工呼吸器を止めてもらった。
大正12年7月11日生まれ、平成13年12月26日死去。享年78歳の生涯を閉じた。
火葬場で荼毘に付す時、外に出たら、朝の空に綺麗な虹がかかっていた。
みんな口々に「アーおばさんが今天国に行かったばいなー、おばさんは人の良かったでなァ」と言ったので、思わず涙が出て来た。
貧乏を常として来た母は、決して贅沢はせず、質素で倹約家だった。おふくろに怒られた事はなく、大声を出して人と言い争うことはなかった。とても温厚だった。



大阪万博に行った時、京都に立ち寄った。お土産に西陣織の財布をおふくろに買って来たら、それはそれは大変喜んで、一生大事にしていた。
俺が、母親にプレゼントしたのは、後にも先にもこれが最初で最後だった。あなたの子供で良かった。
今でも誇りに思っています。
♪忍ぶ忍ばず無縁坂ー、かみしめるよーなーささやーかな僕の、母の人生~♪
Posted by 貝川蒲鉾店
at 21:17
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