2020年09月06日

仲間(青春編)

昭和は輝いていた。

仲間(青春編)

この写真は写真家の土門拳の写真だが、これを一目見た時、「ワァオーこれぞプロの写真」と衝撃を受けた。
生き生きとした子供たちの顔、当時の服装、そして下駄とかつっかけを履いている。運動靴を履いている子は少なかった。
みんな貧乏だったが、みんな楽しそうに遊んでいる。子供のころを思い出してとても懐かしかった。
ある日、ひょんなところから学生時代の写真が出てきた。
ブラスバンド部の部長をやっていたころの写真だ。

仲間(青春編)

中学1年生の時、初めて一緒のクラスクラスになった親友のT君が右に写っている。彼との付き合いは50年は越えている。中学生の頃は体は小柄で背丈も俺の肩ぐらいまでしかなかった。お互い週末になると、泊まったり、泊まりに行ったりする仲だった。
もう1枚の写真は、天草音楽祭の時、本渡南小学校のグランドの片隅で撮った写真だろ。

仲間(青春編)

この中に写っている人の中でもう亡くなっている人が2人ほどいる。
さて青春編にいってみるか。

仲間(青春編)

高校三年の頃の写真と思う。夏休みの宮崎の防波堤の所から撮っているのだろ。後ろに旧牛高の体育館が見える。
左に写っているのがポン友のH君、右がT君。この二人が居たから学生生活はとても楽しかった。
この頃は宮崎の堤防から須口までの遠泳をやっていた。往復で誰が一番で来るかを争っていた。
大概俺が一番で帰ってきていた。でも一番になったからって賞品が出るわけでもないし、もし足などが痙攣して溺れたりしたら、誰も助けに来てはくれん。今思うとぞっとする。
高校2年の頃、久玉の東天紅の御主人(1級上)と一級下の山崎君と、俺と、T君と空手同好会を作っていた。

仲間(青春編)
仲間(青春編)

宮崎の八幡宮の中で、稽古をしていた。俺とT君は卒業と同時にやめたが、社会人になってから山崎君は初段、東天紅の御主人は師範まで登りつめた。宮崎八幡宮の下は、我々の絶好の遊び場でもあった。ま、私の庭みたいなものだった。

仲間(青春編)
仲間(青春編)
仲間(青春編)

魚を釣ったり、泳いでタコとか、ミナ、ガマ、サザエ、トンピ、赤目など、夕ご飯のおかずには事欠かなかった。
今はどうだろう。埋め立ててしまって、魚も貝も海藻も取れない。よせては返す磯辺がないと魚も寄ってこない。その結果が今の牛深の姿だろう。なーんも捕れん!
その後、私とT君は牛深に残り、私は家業を、彼は農協に籍を置いた。まず1人しかいないけど購買主任と言ってたなー。それからAコープの店長、参事、とうとうJAあまくさの組合長まで登りつめた。すごい、すごすぎる。同級生の鑑である。
私も負けずと家業の傍ら、向学心に燃え、絵を描いたり、小学生に絵を教えたり、バンドを組んだりして人生を楽しんでいたんだが、いつの頃から酒と女に溺れてしまい、倒産寸前までいった。(アリとキリギリスより)
彼が参事の時、農協が工場を担保に2000万融資してくれた。助かった。今はその借金も完済している。
今でも「わい」「おい」の仲である。



Posted by 貝川蒲鉾店  at 21:55 │Comments(0)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。