2022年07月23日

野戦病院

今は昔、牛深八幡宮の近くに小さな病院ありけり。
日ごと、大勢の患者が来院していた。
その病院の名を『西村医院』と言う。

この医者は兵隊あがりの軍医長で、言葉も荒いが気も荒い。
小学生の頃はとても恐かった。診察室に入っただけで、子供はみんな泣いていた。
大の大人にも、「オイ、貴様」とか「オイ、お前は」とか、とにかく軍隊調の喋り方だった。
だが、腕は確かだった。ほかにも医院はあったが、当時はこの人に助けられた人は、多かったと思ふ。
風邪をひいてなかなか治らない患者には、「お前、風呂に入ったろー。あれだけ風呂に入るなって言っただろー。風呂に4,5日入らなくても死にはせん。オレの言う事を守れ!」
腹痛でかかると、「お前がいやしかけん」と一喝されるし、とにかく病人だからといって容赦はしなかった。
ところが、この人の奥さんも看護師として、傷の手当とか薬の調合とかを手伝っておられた。
この人も戦時中は、どこかの病院で看護師をしておられたんだろ。どこか気品があり、言葉遣いも丁寧で、軍医から怒られた人を優しく気遣って下さり、野戦病院で天使に会ったようで心も癒されていくようだった。
確か、昭和47年頃の事だったと思う。何を患って診察に行ったかは、思い出せないが、早朝から順番を取りに並んだ。8番目位だったと思う。
須口、茂串、天附などからも来ておられた。
待合室はいっぱいで、外にも5,6人はおられた。





診察時間は8時半からだった。でも軍医は朝食を食べてすぐは診てくれなかった。待合室で待っている皆の前で、訓話を一席打つのが常であった。
「あァーァ、また始まったかァー」と内心思った。すると、「オイ、お前、幸せとは何か言ってみろ!」最初の人は何も答えない。「お前は、お前は」と誰も答えきれない。そうだろ、急に振られても答えられないよ。答えがあるじゃなし、とうとうオレの所まで回って来た。「オイ、幸せとは何かァ」と言われたので、「腹いっぱい食べで、腹いっぱい寝る事」と言ったら、間髪入れず「ヨシ、来い」と言って診察室に連れて行き、一番に診てくれた。
軍医がどう思ったかは知らないが、彼にとってひょっとしたら、目から鱗だったかもしれない。その後、彼が「幸せとは何か」と人に聞くことはなかった。
その2,3年後、鬼塚地区の小田輪業近くに平屋の西村医院が新築された。今度は入院も出来るよう5室ぐらい確保されていた。




この待合室には、オレが22歳の頃描いた、30号の油絵が飾ってあった。喜進丸の網揚げ風景だった。
当時、市役所の初任給が26,000円くらいだった。50,000円で買って下さった。うれしかったァー。
看護師も3~4人いたようだ。この頃には、牛深市民病院も出来ており、昔のように待合室も混まないようになった。
そんなある日、入院患者から1本の電話が入る。
「今夜窓のカギを開けておくから来てね。」「むっこれはもしかして夜這えに来いという事か?」今思うと、古き良き時代であった。
その数年後、軍医は、皮膚ガンを患い、帰らぬ人となった。
まだ建てたばかりの病院で、もったいないと思っていたら、山本歯科が、2,3年でやめた。その後私の同級生の上野徹というのがいて、上野歯科を開業した。
だが、これも長続きしなかった。
やめていく歯科なんてどうでもいいんだが、問題は待合室に飾ってあった絵はどこへ行ったんだろ。
更地になった今は、探すすべもない。  


Posted by 貝川蒲鉾店  at 21:01Comments(0)