2022年08月17日

追悼碁会

7月の上旬、北海道から『富良野メロン』が届いた。



数年前、亡くなった親友の娘さんが、毎年送って下さる。本当に有難いことである。
今年のメロンはとても甘く、美味しかった。この場を借りて厚くお礼申し上げます。

7月25日(月)河浦の天空の碁会所で月例会があった。
世話役の久保さんの発案で、先月亡くなられた吉田さんの追悼碁会をしましょうということで、約10名ほどが集まり、熱戦が繰り広げられた。




結果は先月に引き続き、私の全勝優勝で幕を閉じた。
優勝後のインタビューです。「今のお気持ちを一言お願いします。」「ハイ、自分で自分を褒めてやりたいです。」
どこかで聞いたような言葉、ありがとうございました。

夕方からは、居酒屋『なべちゃん』で懇親会が用意されていた。
牛深組は、一旦車を置きに帰り、丸山さんに迎えに来てもらった。
6時からだったが、みんな早く集まったので、30分早く始まった。
最初、みんなで吉田さんのご冥福を祈り、黙禱をささげた。
嶋津ご住職の挨拶の後、みんなで献杯した。
飲みながら、生前の吉田さんの思い出が、それぞれの口から語られた。








「これが酒の肴になるからネー」後からは、下座の方で論戦にはなっていたが、最後は一本締めで終わった。
「明年この会、誰か健なるをいずくんぞ知らんや」
楽しい一日だったが、みんな70歳前後である。
明年、このメンバーが元気で1人も欠けずにこの『なべちゃん』で会えるかは、誰にも分らない。

8月10日、この日は以前から頼んでいたシルバー人材センターから、工場の周りの草刈りに来られた。
2年前までは、吉田さんが草刈り機を持ってきて、刈ってくれていた。
その日の夜は、海彩館で一席設けるのが常であった。
今年は亡くなったから、シルバー人材センターに頼むしかないと思って、刈ってもらった。




二人で来られて、二時間くらいで終わった。



見違えるように綺麗になった。
シルバー人材恐るべし。
  


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2022年08月11日

まご娘『月紬(つむぎ)』1歳になる

このブログでおなじみのまご娘のツムギが、今月の1日、満1歳の誕生日を迎えた。
今日は、密着取材させていただこう。

天草市の市報に8月生まれの赤ちゃんコーナーがある。



8月号のコーナーで、奇しくも華々しくデビューを飾った。

その日は朝から曇りの天気だった。降らなければいいがなぁーと思っていた。
1歳の誕生日には、色々と古くからのしきたりがあって、我々もしきたりに則り、形だけでも再現した。
我々の産直隊の仲間に、中村餅屋さんがいて、この人が、「私がみんな揃えてやるから」と言われたので、みんな任せた。



紅白の鏡餅と小餅もついてもらった。それから、藁草履も揃えて下さっていた。

長男から10時頃、TELがかかり、「まだ来んとやー。こっちは準備出来たぞ」嫁にTELしたら、ちょうど外は土砂降りで餅屋さんに足止めをくらっていた。しばらくして、雨も止み、嫁が来たところで、はじまりはじまり。
まずは草鞋を履かせるのだが、なかなか履かない。



仕方がないので、素足で鏡餅を踏ませた。これもなかな言うことを聞かない。




まぁ型だけでも写真に撮れたからいいとして、後は小餅をリュックにつめて、かるわせるのだが、1回、2回と立ち上がろうとするが、尻モチついた。







3回目にやっと立ち上がり、歩き始めた。みんな拍手喝采だ。
「いや、ここまで歩けるようになっているのには、ビックリした。」

次は将来何になるかだ。
本、カマボコ、ハサミ、財布、文房具の5種類を並べた。
さぁー、ぶっつけ本番だ。
お母さんの膝元から「GO」の合図で、勢い良く這って行った。
迷わず、本を選んだ。



みんな「オーッ」というため息が出た。「もしかしたら、カマボコを取るんじゃないか」とみんな内心思っていたに違いない。
すると母の元に行き、2回目に挑戦した。まさかカマボコは取らないだろうと思っていたら、そのカマボコを掴んだ。



みんな拍手喝采だ。「ワァオ、なんて奴だ、みんなの気持ちと場の空気を、いち早く読んで笑いを取りに行くなんて、すごい奴だツムギは。」
ご褒美にお母さん手作りのバースデーケーキが出て来た。



ローソクの光に少し怯えたが、お父さんと一緒にローソクを消した。「ツムギちゃんお誕生日おめでとう。」の声で、みんなと一緒に拍手した。そのケーキを頬張りながら、みんなとハイタッチした。



午後からお母さん方に行き、向うのご両親に1歳の誕生日のご報告に行った。
向うのじいちゃん、ばーちゃんも大変喜ばれ、可愛いまご娘に目をほそめられていた。




「よかったネェーツムギ、みんなから可愛いがられて。」

夜はチロリン村で一席設けた。
ツムギは自分専用の椅子を持参した。



ツムギの成長を祝して、みんなで乾杯した。
ツムギは早く食べ終わり、1人で絵本を広げて遊んでいた。
すると父親が絵本を読んで聞かせていた。次男も加わり、パペットマペットで相手してくれた。




次男が絵本を読んで聞かせたら、身を乗り出して聞き入っていた。絵本が本当に好きなんだなぁー。

今日一日、ツムギと居られて幸せだった。
これからどんな人生が待っているかわからないが、この幸せが長く続きますように願うだけだ。
”ツムギ、命”
  


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2022年07月23日

野戦病院

今は昔、牛深八幡宮の近くに小さな病院ありけり。
日ごと、大勢の患者が来院していた。
その病院の名を『西村医院』と言う。

この医者は兵隊あがりの軍医長で、言葉も荒いが気も荒い。
小学生の頃はとても恐かった。診察室に入っただけで、子供はみんな泣いていた。
大の大人にも、「オイ、貴様」とか「オイ、お前は」とか、とにかく軍隊調の喋り方だった。
だが、腕は確かだった。ほかにも医院はあったが、当時はこの人に助けられた人は、多かったと思ふ。
風邪をひいてなかなか治らない患者には、「お前、風呂に入ったろー。あれだけ風呂に入るなって言っただろー。風呂に4,5日入らなくても死にはせん。オレの言う事を守れ!」
腹痛でかかると、「お前がいやしかけん」と一喝されるし、とにかく病人だからといって容赦はしなかった。
ところが、この人の奥さんも看護師として、傷の手当とか薬の調合とかを手伝っておられた。
この人も戦時中は、どこかの病院で看護師をしておられたんだろ。どこか気品があり、言葉遣いも丁寧で、軍医から怒られた人を優しく気遣って下さり、野戦病院で天使に会ったようで心も癒されていくようだった。
確か、昭和47年頃の事だったと思う。何を患って診察に行ったかは、思い出せないが、早朝から順番を取りに並んだ。8番目位だったと思う。
須口、茂串、天附などからも来ておられた。
待合室はいっぱいで、外にも5,6人はおられた。





診察時間は8時半からだった。でも軍医は朝食を食べてすぐは診てくれなかった。待合室で待っている皆の前で、訓話を一席打つのが常であった。
「あァーァ、また始まったかァー」と内心思った。すると、「オイ、お前、幸せとは何か言ってみろ!」最初の人は何も答えない。「お前は、お前は」と誰も答えきれない。そうだろ、急に振られても答えられないよ。答えがあるじゃなし、とうとうオレの所まで回って来た。「オイ、幸せとは何かァ」と言われたので、「腹いっぱい食べで、腹いっぱい寝る事」と言ったら、間髪入れず「ヨシ、来い」と言って診察室に連れて行き、一番に診てくれた。
軍医がどう思ったかは知らないが、彼にとってひょっとしたら、目から鱗だったかもしれない。その後、彼が「幸せとは何か」と人に聞くことはなかった。
その2,3年後、鬼塚地区の小田輪業近くに平屋の西村医院が新築された。今度は入院も出来るよう5室ぐらい確保されていた。




この待合室には、オレが22歳の頃描いた、30号の油絵が飾ってあった。喜進丸の網揚げ風景だった。
当時、市役所の初任給が26,000円くらいだった。50,000円で買って下さった。うれしかったァー。
看護師も3~4人いたようだ。この頃には、牛深市民病院も出来ており、昔のように待合室も混まないようになった。
そんなある日、入院患者から1本の電話が入る。
「今夜窓のカギを開けておくから来てね。」「むっこれはもしかして夜這えに来いという事か?」今思うと、古き良き時代であった。
その数年後、軍医は、皮膚ガンを患い、帰らぬ人となった。
まだ建てたばかりの病院で、もったいないと思っていたら、山本歯科が、2,3年でやめた。その後私の同級生の上野徹というのがいて、上野歯科を開業した。
だが、これも長続きしなかった。
やめていく歯科なんてどうでもいいんだが、問題は待合室に飾ってあった絵はどこへ行ったんだろ。
更地になった今は、探すすべもない。  


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2022年06月24日

親友の死

♪雨が降ります雨が降る~遊びに行きたし金は無しー♪
若山牧水に貧しさを嘆いて詠んだ歌がある。
”抽出しの数の多さよ家のうちかき探せども一銭もなし”
牧水は大正末年九州を旅した。51日間の長旅だったが、紀行文に記録された酒の量が並大抵ではない。
朝の4合から始まり「一日平均二升五合に見積もり、この旅の間に1人で約一石三斗を飲んできた(一石は180.4リットル)。」
その3年後、肝臓を患った牧水は43歳で死去した。
日に2升5合と聞けば、体内のアルコールが防腐剤となって遺体が傷まなかったという伝説にも「さもありなん」とうなずくほかない。

今月の13日夜、風呂に入っている間に着信が入っていた。
見てみると、マブダチの吉田さんからだった。どうせ又酔っぱらってかけて来たんだろーと思って、明日夜が明けてからかけようとその日はかけなかった。
翌日、その日は仕事が休みだったので、自宅に居た。すると、家の電話が鳴った。出てみると、吉田さんの隣の金子さんだった。「ケンちゃん、あんた知っといとや」「何を?」「吉田さんが昨日の晩、亡くならしたってぞー」「エーッ、ウソでしょう」「今日が通夜で明日が葬式って」「エーッ、そうですか、知らせてくれて有難うございました。」その足ですぐ斎場へ行った。するとそこには、自衛隊の三男坊が1人おられた。吉田さんの一部始終を話してくれた。
末期の肺ガンだったそうだ。昨年3月で光琳産業を退職、自動車も車検代がないっと言って手放し、運転免許も返納された。その頃から「心配事があるとさなぁー」「何でしょうか」「中邑医院から、地域医療センターで精密検査を受けるように言われ、その結果がまだこんとさなぁー」と語った。
その頃から、時々妙な咳をしておられた。「それは心配ですねー」と言って、その場は終わった。
数日後、「ケンちゃんなんともなかったぞ、良かったぁー」と明るい声で話してくれた。
だが、日を追うごとに瘦せ衰えいかれるので、これじゃいかんと思い、牛深支所の社会福祉協議会をたずね、吉田さんの家に来てもらい、今後は行政で見てもらうように手続きをとった。
そこで私は「吉田さん、今後は家族や兄弟や福祉協議会とよく話し合って生きていってください。私の仕事はこれで終わりです。」と言って帰ったが、あれが最後だった。







思い起こせば、40年前、囲碁を通じて知り合った。
囲碁仲間の内でも、兄弟のように仲が良かった。特に酒の付き合いが多かった。碁が終わると、「ケンちゃんちょっと寄って行こかい。」と言って、夜のとばりの中に消えていった。これが楽しくてネー、他の連中も「貝川、焼酎ば飲み切らんば碁は強くならん」と言ってあっちこっちと飲みに連れていかれた。おかげで碁は強くなったが、酒の方はうわばみみたいな連中ばかりだったので、足元にも及ばなかった。
佐々木又男、太田定、平田健二、一二祐介、そして吉田一久さん。みんな酒が元で死んでしまった。
彼らと一緒に囲碁に命を吹き込んだ薬効に感謝しつつ、彼らの命を縮めた毒性を恨みつつ、それでも止めない男が1人ここにいる。








もうひとつ牧水の歌がある。「かんがえて飲み始めたる一合の二合の酒の夏の夕暮れ」
2升5合はお付き合いしかねるが、碁盤を傍らに故人と盃を傾けてみる初夏の夕暮れ。
命がけで飲む酒などこの世にあるはずがない!
御冥福を祈る  


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2022年05月16日

強情だが、少し優しい床屋さん

♪夏も近づく八十八夜~野にも山にも馬鹿馬鹿シゲル~♪
幼い頃は、唄の内容も知らず、良く唄った。シゲルという名の人がおられたらゆるされよ!
八十八夜は過ぎたけれど、我が工場には、色々な花が咲き始めている。五月、カーネーション、アジサイ等々、特に五月は昨年、行きつけの床屋さんから、頂いた代物だ。



友情の証として、大事に育てて来た。その甲斐あって今年も花が咲いてくれた。
この床屋さんは堅物で通っている。強情ぷりは冷えた焼き餅みたいに固く曲がったことが大嫌いときている。
釣り針でも、真直な釣り針しか使わないというから、それはもう大変な堅物である。
そんな人から頂いた「五月」だ。枯れかしでもしたら、浅野内匠頭じゃないが、腹切ってお詫び申し上げねばなるまい。
そんな床屋さんだが、囲碁好きで週3回は、打ちに寄らせてもらっている。




「何!どちらが強いかってか?」
「それは、弁慶と野見宿禰(のみのすくね)が相撲を取ったら、どちらが強いかって、聞いているようなものだ。いい勝負でしょう。」

ゴールデンウイークも終わり、平常な日々に戻った。
5月1日は、第1回『町おこし南風マルシェ』が、海彩館の中の広場で行われた。パットパットゴルフ、ウォークラリー、ミニバレーなど行われたが、ミニバレーは参加チームが少なく、中止になった。昼からは餅投げなどもあり、結構人も集まった。






当店も出店し、そこそこ売り上げる事ができた。
毎月じゃなくても、3ヶ月に1回くらいでもあると町おこしにもなるんじゃないかと思うけど、1回きりで終わるかもしれない。

さて、近頃はツムギに会っていない。5月から、保育園に行くようになったので、工場にはなかなか来る機会がない。しかし今は便利な世の中になった。LINEで写真や動画が逐次送られてくる。
生まれて初めて、前髪を切ってもらった。



可愛いネー。
オッ、女コックさんの真似かい、



頭にかぶっているものは、パンパースじゃないのかい。
何に、まだまだ芸は出来るだと、ぜひやってみせてくれぃ!
ウルトラマンかァ。



オッそれは誰だ「明石家さんま」



それは?「変顔のクシャクシャオジサン」




エーッ、リモコンも操作できるのかァー。



いいネー、素晴らしい、最高ー。
まだ生まれて9ヶ月しか経たないのにもうユーモアのセンスがあるとは、将来が楽しみだ。
早くしゃべれるようになってくれー。  


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2022年05月08日

『母の日にささげる鎮魂歌』

♪母がまだ~若い頃~僕の手を引いて~この坂を登るたび~ため息をついた~♪

今年もまた母の日が来てしまった。
あれは20年前の事だった。カマボコ屋にとっては、年末はかき入れ時で、1年の内でも一番忙しい時期だった。
おふくろも作業服を着て手伝ってくれていた。




注文が毎日毎日来るので、休む間もなく仕事に明け暮れていた。
母は、血圧と心臓肥大と不整脈の薬を飲んでいた。仕事中は時々手を休め、深い溜息をついていた。
「きつかれば、自分で休むだろう」と、自由にさせていた。
ある日、その日は朝4時からの仕事だったので、いつものように工場に行った。すると、いつも真暗な工場に電気がついていた。
しかもドアも開いたままになっていた。「うん?おかしい」一抹の不安が頭をよぎった。車を駐車場に置いて、急いで中へ入ってみた。
すると、おふくろが、箸を握ったまま倒れていた。テーブルの上には、夕べ嫁が用意したご飯とおかずが置かれていた。
一口二口食べて、そのまま倒れたんだろう。慌てて119番にTELした。
意識は少しあったが、額に傷があり、少し血が出ていた。椅子からそのまま倒れたんだろう。すぐ救急車が来て、市民病院に運んでもらい、CTを撮ってもらった。
その間、おばさんと嫁に連絡し、病院に来てもらった。
結果は、脳出血で、頭の3分の1まで出血が広がっていた。
医者の説明では、「倒れてから、17時間は経過している。もう少し早ければ助かる可能性はあったかもしれないが、おそらく助からないでしょう。」と、「オーマイ、ゴッド」なんてこった!
俺は昨日、仕事が終わってから、行きつけの『あんま』さんに肩と腰を揉んでもらいに行っていた。帰りにあんまさんが、「キダコの湯ぶきは食べますか。」と1パック頂いた。おふくろが好きだから、食べさせようと思ってもらってきた。
帰りは7時過ぎていたので、明日でもいいかと思って、工場には帰らなかった。その時帰っていればと、悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。

♪運が良いとか悪いとか~人は時々、口にするけど、そうーゆう事って確かにあると、あなたを見ていてそう思う~♪
我に返り、今日の仕事を片付けてしまわなくてはいけないと思い、後は嫁とおばさんに任せ、工場に帰った。仕事をしながら、もう助からないなら、ああしとけば良かった。こうしとけば良かったと親不孝を後悔して、涙がボロボロと出て来た。
仕事を終え、病院に行った。言葉はしゃべれないが、耳は聞こえていた。こちらの言葉にうなずきはしていた。いろいろしゃべろうと思っていたが、相部屋で、隣のベッドの患者の容体が悪くなり、医者、看護師、家族などが、大声を出しながら、慌ただしく救命治療を施していた。
「スミマセンが、部屋の外に出とってもらえないでしょうか。」と看護師が言ったので、廊下に出た。廊下からおふくろのベッドを見ていたら、右手で掛け布団を胸の所まで引き上げそのまま眠りについた。
あれが最後の別れとなった。その後、人工呼吸器をつけ、口からチューブを入れた。脳死状態で、心臓だけが動いていた。
人工呼吸器からの心拍音は不整脈の音で不規則に流れている。
入院5日目、植物人間の状態が続いている。決断を迫られた。
「おふくろすまない。チューブを抜かせてもらうよ」と心で詫びながら医者に人工呼吸器を止めてもらった。
大正12年7月11日生まれ、平成13年12月26日死去。享年78歳の生涯を閉じた。

火葬場で荼毘に付す時、外に出たら、朝の空に綺麗な虹がかかっていた。
みんな口々に「アーおばさんが今天国に行かったばいなー、おばさんは人の良かったでなァ」と言ったので、思わず涙が出て来た。
貧乏を常として来た母は、決して贅沢はせず、質素で倹約家だった。おふくろに怒られた事はなく、大声を出して人と言い争うことはなかった。とても温厚だった。





大阪万博に行った時、京都に立ち寄った。お土産に西陣織の財布をおふくろに買って来たら、それはそれは大変喜んで、一生大事にしていた。
俺が、母親にプレゼントしたのは、後にも先にもこれが最初で最後だった。あなたの子供で良かった。
今でも誇りに思っています。

♪忍ぶ忍ばず無縁坂ー、かみしめるよーなーささやーかな僕の、母の人生~♪  


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2022年04月17日

カウボーイ、カナダへ帰る

春眠暁を覚えず、処々啼鳥を聞く、夜来風雨の声、花落ちること知る多少。
この詩のように、春の目覚めは何と心地よいものだろ。いくら寝ても眠い。

4月1日、とうとう冷蔵庫の室外機が壊れ、新しいのに取り替えなければならなくなった。
痛い出費だった。



これだけは、「待った」なしだ。仕事が出来ないからなー
同じ日、孫娘の保育園の入園式があった。



まだ、生後8ヶ月しか経っていないのに、可哀想と思うけど、共働きだから仕方がない。
幸いにも嫁さんが保育士だから、同じ保育園のなので、心配はない。入園式では、さっそく奇声を上げていたそうな。





また、同じ日の午後、あのカウボーイからお別れの挨拶に来ますと、先日メールが届いていた。次男と嫁と三人で待っていたら、夕方の4時ごろ、奥さんと友人と三人で来られた。




自家製のパンをお土産に頂いた。重くて少し硬かった。早く食べてみたいと思いはあったけど、「待て待て、慌てる乞食はもらいが少ない」明日の朝食に期待しよう。
短い間だったけど、お互い職人としての心意気が通じ合ったみたいだ。どうか異国の地で戦渦に巻き込まれないよう、12月には元気な姿で帰って来られることを切望してやまない。

そんな中、ハイヤ祭り前で、仕事も忙しくなった。ツムギの職場訪問があった。ツムギが来ると、仕事場が明るくなる。





ここは寝転ぶところがないので、遊ばれないが、桶に入れたり、箱に入れたりしてやると、結構1人で遊んでくれる。






真剣白刃取りをしたり、一寸法師になったりして、楽しませてくれる。



近頃は、1人でつかまり立ちできるようになったそうな。



歩き出すのも間近だろう。楽しみである。日本は平和でいい。
仕事が終わり、家に帰り、テレビを見ると、ウクライナ情勢ばかりだ。食事中目を覆いたくなるような光景が映し出される。罪もない子供、女性、一般市民、老人に至るまで、大量虐殺。これが人間のやることか。「おのれプーチン。この世に天罰があるならば、あんたに一番に当たってもらいたい。」
そんな中、ウクライナのミサイル2発が、ロシアの黒海艦隊の旗艦である巡洋艦『モスクワ』を撃沈したと、15日の新聞で見た。溜飲が下がった。



まだ、ウクライナも捨てたものではない。ガンバレウクライナ!
近頃、遠い国だったウクライナが近くに感じるのは俺だけだろうか、地球上のあらゆる動物は、集団で戦うことはしない。
ましていわんや霊長類の長においておや。  


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2022年04月05日

ひな祭りと2人の誕生日

♪令和4年は春催い~桜吹けば~情をも舞う~♪

工場のまわりは花々が咲きほこっている。
椿も蘭も咲くスペースがないくらい、いっぱい咲きに咲いた。
俺が毎日水をやるから、お礼に咲いてくれるのだろう。有難い。





3月1日、71歳の誕生日だった。70歳と何にも変わらない。どうせお祝いもないだろうと思っていた。
工場に行くと、二人の息子がいた。すると次男が俺の肩に手をやり、「お父さん、これだけはハッキリ言っておく。」「うん、これは今夜あたり、どこかで一席もうけてくれるのでは。」と少し期待を持った。
「お誕生日おめでとう。」と言って去って行った。
「なんだ、それだけかい。思わせぶりをするな、思わせぶりを。」
夕方、『獺祭』の四合瓶を買って来て、一人寂しく飲んだ。



3月3日は、孫娘のひな祭りだった。初めてのひな祭りだが、コロナ禍で質素にすることにした。神様、仏様に赤飯をお供えして、近所にも配った。
昼はツムギの家に行き、みんなで昼食を食べた。ひな人形が飾ってあったが、このひな人形は『紬(つむぎ)』という名で売られていた。
いっぱい人形の種類は飾ってあったが、「これは紬を買わない訳にはいけないでしょう。」と言って、迷わず買ったそうだ。ツムギも終始ご機嫌だった。







この頃は、椅子に座って食べれるようになった。

3月19日、この日は山の神の誕生日だった。我が家では大事な行事の一つだ。次男に誕生日はどうするか、奏上してもらった。
「海彩館で」との詔がおりた。予約を入れる。ツムギ一家にもPM6時に来るようにTELを入れた。
コロナ禍でテーブルはアクリル板で仕切ってあり、1テーブル3人までとなっていた。
ツムギは専用の椅子を持参し、先に離乳食を食べた。





我々も乾杯して、食べ始めたが、あまり会話はなく、転んだり這いずり回って奇声を上げるツムギの一挙一動を、見てて楽しんだ。
最後にみんなで記念写真を撮った。



この家族は、ツムギを中心に毎日が回っている。幸せと言うことだろう。

3月25日、高齢者講習だった。とうとう来たか赤紙が、70歳になっても気持ちは30代位の気持ちでいたが、このハガキが来たとき、「あーとうとう俺も高齢者になったかァ」と実感せざるをえなかった。
牛深自動車学校で講習を受けた。今度までは、認知症のテストはなかったが、75歳からは受けなくてはならない。
講師曰く「今までの試験で100点満点が二人おられた。」と、この二人に話を聞いたら、二人とも金に関わる仕事をしていたそうだ。
1人は92歳の元行員、1人は84歳の会社の社長、金を数えるのが仕事だったとか。
すると俺が「ハハァーン、俺が物覚えが悪いのは、数える金がないからばいな。」と」言ったら、一同爆笑だった。

3月30日、33回目の結婚記念日だった。このご時世、どこにも行かず、自宅で家族3人で祝うことにした。
テーブルには白ワイン『マドンナ』を1本献上した。



33年かぁー。よくもったもんだ。やぶれ鍋にとじ蓋だろう。
  


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2022年03月02日

カウボーイの来店

2月4日、立春、暦の上では春であるが、寒い日が続いた。
吾輩はというと、鳴かず飛ばずで、冬眠と言っても過言ではない生活だった。
冷凍庫の修理、換気扇の交換と、物入りの月だった。






そんな中、1本の電話が入る。「イトウと言いますが、アマビズの小田さんの紹介で、そちらの商品を見せていただきたい思って。」
小田さんの紹介なら、断ることも出来ないなーと思いOKした。
次男と待つことにしたが、定刻の時間になっても来ない。
「約束の時間に来ない奴は、ろくな奴じゃないなァ」と内心怒っていたら、30分遅れで来た。
こんにちはーと入って来たので、よく見ると、「ワァオー、カウボーイじゃないか。」




いろいろ話を聞いてみると、カナダ在住とのことだった。
カナダの冬は寒いので、12月から3月までは、日本に帰って来るそうだ。「季節労働者だね。」というと、「そうですネー」と大笑いした。
カナダでは、コックをしていて、結構いい給料をもらっているそうだ、暖かい天草で店を構え、12月~3月まで、天草の食材を使った、和、洋食が提供できるレストランを古民家を改造してオープンさせたそうだ。
野菜は、内の原の井上農園さんをアマビズの小田さんから紹介されたそうだが、牛深へ行ったらぜひ貝川さんの所に寄った方が良いよ、一見の価値があると、言われたので来ました。とのことだった。
じゃということで、次男が、くんせいを切って食べてもらった。
すると、「うまい。魚の味がする。くんせいの香りがとてもいい。私が今まで食べて来たカマボコとは全然違う。しかも松の木の煙で燻すなんて、どこにもない。」と絶賛された。ぜひお店でも使いたいとのことだったので、お土産として、少し持たせてやった。
「2月16日には、宇城彩館に納品に行くので、息子二人に寄らせますよ」と言って見送った。
場所は大矢野で、大矢野警察署の手前から左に曲がって、スパ・タラソ天草がある海岸線をずっと行って橋を渡った野釜島にあるそうだ。
店の名前は、『うみそら』、長男は野菜カレー、次男はゴルゴンゾーラのグラタンを食べたそうだが、私は食べてないので、味はわからないが、次男の話では大変美味しかったそうだ。興味のある方は、一度お出かけになられては、どうでせふ。








2月23日、イオン九州から工場の簡易調査に来られた。
取引を前提に工場の衛生チェックとHACCPの取り組みとか、冷蔵庫・冷凍庫の温度管理、機械器具の洗浄マニュアルとかいっぱいチェック項目が並んでいた。来られたのは、1人だったが、本部からスマホでリモートしながら、「次はここを写して下さい。次はどこを写して下さい。」と指令が出る。それを見ながらここはこうして下さい。そこはそうして下さいと。改善個所を指摘してくる。「今は便利な世の中になったなぁー」と感心した。



最後、換気扇を見て「綺麗にしてありますねー」とお褒めの言葉を頂いた。この換気扇は2月の初めに新しいのに取り替えたばかりだったので、帰られた後、息子と二人で、大笑いした。
願わくは取引が出来るようになればと祈るだけだ。
  


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2022年01月23日

百舌鳥の速贄(はやにえ)

「冬に来たりなば春遠からじ」
松の内も明けて、仕事も順調な滑り出しだったが、また熊本県に蔓延防止が発令された。
天草マラソンは中止、天空の碁会所も中止とコロナ禍は止まるところを知らない。おかげで商売あがったりだ。
そんな中、先般新聞を読んでいたら、1枚の写真を見つけた。



”百舌の速贄だ”初めて見た。とてもグロテスクだ。
百舌鳥は秋になるとカエルや昆虫を捕らえ、木の枝に突き刺し、冬場の食料として確保する習性がある。
「キー」と甲高い声で鳴き、鳥の処刑人として、鳥仲間からは嫌われているそうだ。どこかアウトローなところがあり、孤高感さえ漂う。
どこかの作家が言っていた。「今度産まれてくるなら、冬の百舌鳥」少しわかる気がする。

1月13日、左の中指と薬指が、バネ指になっていて、年末から痛かった。特に中指の根元が、赤く腫れていた。
この日県庁行きだったので、仕事は休みにした。
朝から市民病院の整形の順番を取りに行き、係の看護師に11時過ぎに来るからと言って、一旦工場に帰って来た。
11時半頃待合室に行ってみると、まだ一杯椅子に座っていた。「アァー、今日は2時までかかるばい」と覚悟を決め長椅子に腰かけ、腕を組んで眠っていた。
すると、「じいちゃ・・・じいちゃん」と呼ぶ声で目が覚めた。
見てみるとツムギが目の前にいるじゃないか。



「オッ、ツムギ、今日は何事?」と聞くと、「BCGの予防接種です。」と答えた。
今は機嫌が良かが、注射するとも知らないで可哀想にと思った。
小一時間位待ったら、貝川さーんと呼ばれ、診察室に入った。「スミマセンネー長く待たせて。」と看護師が言ったので、「結婚してからは、私は、我慢強くなったので、大丈夫ですよ。」言ったら、「ニコッとされた」
手のひらに注射を打つことになった。「ちょっと待ってくれ、お祈りするから。」と言って、胸の所で十文字を切った。
先生が終わった後に「どう、痛くはなかった。」と聞く、「痛かった、やっぱりにわかクリスチャンはダメだ。」「え、クリスチャンかと思った。」と看護師、「オレは、敬謙な仏教徒だ。」と言ってみんなで笑った。
診察室を出ると、待合室にけたたましい泣き声が聞こえて来た。
「あの声は」ツムギの声だ。目から涙をいっぱい流しながら大声を出して泣いていた。



オレが来たら、バツが悪かったのだろう。ゲンコツを口の中に入れて、泣かなくなった。



「オオー痛かったネ、背中の遠山桜が似合っているネー」
まだ生まれて5ヶ月しか経っていないのに、その成長ぶりは、目を見張るものがある。近況が逐次Lineで送られてくる。



・寝返りを打つことも出来るようになった。


・かおる君のお母さんからデンデン太鼓も頂いた。


・十倍ガユ食べれるようになった。



・忍者ハットリくんの顔真似も出来るようになった。愉快な子供だ。
這えば立て、立てば歩めの親心。  


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2022年01月08日

迎春

♪もう幾つ寝るとお正月ーお正月には…♪
事情通「オイオイ、オッサン、オッサン。もう正月はとっくに過ぎてるヨ。」
「えっ、いつのまに?じゃ、オレは正月は何してたんだろう。」
事情通「アァーこれだから、年寄りのオッサンは困る!じゃ巻き戻してやるよ!元旦から。」

今年の正月は、新しい家族が増えて、賑やかだった。
ツムギが生まれて初めて我が家にやって来た。
「オッ、じっちゃん、狭いところに住んでるネー。」



「マ、そう言うなヨー。狭いながらも苦しい我が家と言うじゃないか。今日は正月、ツムギの好きな、八海山と九頭龍を買っておいたヨ。無礼講だ、楽しくやろうぜ。」



終始笑顔のツムギは、エンターテイメントだった。



1人で話題を集めていた。
最後、記念写真を撮ったが、富や財産の無い我々とって、このひとときが一番の幸せと言えるかもしれない。




1月3日は、恒例で八幡宮に家族で初詣に行くのが我家のならわしである。
ツムギたちも先に来ていた。



予定時間前に着いたが、前の人が、神事が終わってなく、時間が空いていたので、みんなで、記念写真を撮った。



境内には、お宮の中から雅楽が流れてきて、いかにも正月という感じがした。
ツムギには初めての曲だっただろう。その心地よさに目が虚ろになって来ていた。




家族が呼ばれ、神様の前に行ったら、もうダウン寸前、神事が終わったら、眠っていた。
久々に神の国の音楽に触れて、心が安らいだのだろう。

午後からは、小川抜刀斎殿のお屋敷で新年碁会が開かれた。
御船から、袋田名人、阿蘇方面から友田達人の両氏を迎えての碁だった。




私は、達人に2連敗した。今年を占う上での碁会だったが、一抹の不安がよぎった。
帰りの駐車場で、「どうだい、一杯飲みに行くか?」と言ったら、「金を下ろしてくいで待っとかんな。」と「じゃ工場にいるから」
後でよく考えたら、家に正月の残りもあるし、嫁さんに電話で事情を説明したら、OKしてくれた。「今日は俺の家で飲もう。」
その夜は、1年振りの飲み会になった。そしたら、千円を嫁に差し出し、「これは、お孫さんのお年玉に」と置いていった。
それを翌日、ツムギにお年玉袋に入れて渡した。
そしたら、初めて見るお年玉袋に興味深々、また前のかおる君のお母さんからと、嫁、次男からも頂いた。よかったネーツムギ。



各方面の方々、ツムギになりかわり厚くお礼申し上げます。

ア、そうそう、ブロガーの皆様に新年の挨拶を忘れていた。
皆様、新年明けまして、お目出とうございます。
いつもつたない小欄を見て頂き、ありがとうございます。
私、思い起こせば、昨年は、恥ずかしき事の数々、反省の日々を送っています。
今年こそは、地道な暮らしに戻り、立派な堅気になりたいと思っております。
どうかこの1年このつたない小欄とお付き合い願えたら、光栄の至りです。今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。  


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2021年12月30日

戦友

♪ここは、お国の何百里、はなれーて、遠き牛深のー赤い夕陽に照らされてー♪
終わったァー、やっと終わった。この近年、稀に見ぬ激戦だった。
毎朝、5時、6時に起き、早朝から作戦は決行される。
炊事軍曹が体調を崩し、時々戦線を離脱する。
そんな時の為に、『カレー』、『中華丼』、『牛丼』などのレトルト食品が備蓄されている。
それをみんなで温めて、食べ、飢えをしのいだ。今は便利な世の中だね~。
12月20日過ぎ、柚子胡椒入り蒲鉾、イカスミ入り蒲鉾、焼き蒲鉾、2本入りくんせいなどの商品が欠品しだした。
ギフトセットを一旦ストップする。
その間、フル操業だ。みんな疲れもピークに達している。
最後には、非戦闘員も駆り出される始末だ。





ツムギの笑顔だけが、みんなの救いだった。



♪戦いすすんで日が暮れてー、探しにもーどる、心ではー、どうか無事でいてくれとー、物など言ーえと願うのか~♪
やはり、一日の終わりは晩酌でしょう。これだけが楽しみで生きてるようなものだ。飲み物、食べ物は、下手な居酒屋より待遇は良い。
真珠会社のアルバイトで副収入があったので、越後の景虎と、福井の九頭龍(くずりゅう)を買って来た。





東北の酒はさらりとして飲みやすい。特に九頭龍は美味かった。
そこに、また北海道から、十勝ワイン2本が送られて来た。若い頃はよく飲んでいたが、何10年振りに飲んだ。



美味い、この一言で、もう何も言うことはないんじゃないですかネ。
ワイン通の次男も太鼓判を押してくれた。
北海道の友人にこの場を借りて厚くお礼申し上げます。
次男と酒談義をしていたら、もう1人戦友の姿が見えぬ。
♪どうか無事でいてくれとものなど言えと願うのかー♪すると、コタツの傍らで焼酎の空箱をしとねに、討ち死にしていた。



あぁーあわれ、疲れているんだろう。みんな。

そんな中、ツムギが「じいちゃん」と言って現れる。
「このゲンコツが、ツムギの口に入るか、賭けしない」と言い出した。
「もし、入ってしまったら、お年玉頂戴」と言った。
「バカヤロウー入る訳なかろうもん。」「じゃ見てて」と言って、おもむろにゲンコツを口の中に入れた。1回目は「ゲェー」したが、再度チャレンジしていく。





「アァーやめろ、やめろ、わかった、わかった。お年玉はやるからやめろ!小学校に入る頃は、口裂け女になるぞ!」
まったく、5か月もならないのに、いろいろ技を覚えやがって。大人をびっくりさせる。そういうツムギが大好きだ!

話は変わるが、さっき越後景虎が出てきたが、戦国武将に酒にちなんだ名前が多いそうだが知ってるかい?
「ほー例えば」「酒だ信玄、織田飲む長、飲み杉謙信などはどうかな」「ちょっとあてつけがましくはないかいそれは。」
やっぱし、お後がよろしいようで…
  


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2021年12月19日

戦場の小さな慰問団

♪好きヨ~あなた~今でも、今でも、暦はもう少しで、今年も終わりですネ~♪




10月末、当社で30年近く働いて下さった従業員の方が、勇退された。
御年81歳。いつかはこの日が来るとは思っていたが、来てみると、淋しい限りだ。永い間、本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
これから、最盛期に入る。新しい従業員を早く補充しなければと思い、誰かいないかと考えて見たら、1人心当たりの人物が思い浮かんだ。
声をかけてみた。二つ返事でOKしてくれた。ありがたかった。しかし、二週間しか、もたなかった。根性無しめ!
慌てて、ハローワークに求人を申し込んだ。そしたら、この4,5年求人をしていないから、最初から、手続きをして下さいと、FAXが10枚ほど送信されてきた。
「こんな小さな字読めるか!こんなの読んでいたら、今年は終わってしまうわい!」と言うことで、今のままの従業員で頑張ることにした。
11月半ば、注文が殺到する。1日の生産は限られている。
緊急事態が発生する。主力の2本入りくんせいの袋が、12月半ばで切れる。
11月のあたまに発注を入れていたが、年内は無理とメーカーから知らせが入る。
11月末、水光社、とれたて市場のギフトが始まる。それに、ふるさと納税返礼品に、ふるさと宅配便。
毎日が戦闘状態である。だが、戦をするのに、兵隊も弾もない。売る蒲鉾がないのだ。老兵まで駆り出される。まるで、終戦間近の日本軍みたいだ。
”後手後手と、打つへぼ碁かな”

そんな中、戦場に小さな慰問団」が現れる。戦場の人気者になっている。




この頃は芸も見せてくれる。
まずは桃太郎侍から、「天下御免のこの向う傷が目に入らぬかァー」



ははァーそれは無添加だけどー、でもいいヨ、いいヨ。
何!今度は美川憲一をやるってか?俺はねーそれがいつ出るかいつ出るかと、さっきからうずうずしてたんだホントは…ぜひやってもらおう。
「いいえ私は、さそり座の女、お気の済むまで笑うがいいワー」



いいネー、そっくり。
慰問団が来ると仕事も手につかない。
70年振りに、孫を抱っこして見る。




どうにもぎこちないが、そのうち慣れるサー。
生後4ヶ月の赤ちゃんだけど、日に日に魂が入ってきているようだ。
近頃は、年賀状の写真撮りにも行ったそうだ。
来年は寅年。トラの着ぐるみを着て、親指を立てて一言、「じいちゃん、グッド、ジョブ」



可愛いネー

  


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2021年10月28日

「招かざる客」

「天高く妻肥ゆる秋」「ん?」
やっと秋らしくなってきた。「どうにもならぬ裏の柿の木、どうにもならぬ他人の奥さんときたぁー」とテキ屋の口上にあるが、その今までならなかった裏の柿の木に今年は実がなった。



毎年奈良の友人から、柿が送られてきていた。その柿の種が自然に目を出したんだろう。もう10年以上経ったかもしれない。このブログでも何回か友情の柿の木で載せてある。
それが今年は6個だけ食べられるほどの大きさに育った。
立派な柿ではないか、早速神様と仏様にお供えした。



我々も食べた。甘くて美味しかった。奈良の友人に感謝!

もう一つ、貝川蒲鉾店の秋の風物詩、ボラがやって来た。
カラスミを取った後のボラが毎年この時期になると運ばれて来る。





これが来ると、当店も年末に向けての仕事の臨戦態勢に入る。

10月から県の緊急事態宣言も解除され、河浦の天空の碁会所も、開催されることになった。
やっと碁が打てるようになった。何ヶ月ぶりに皆さんと再会した。皆さんも碁が打てるようになって、安堵したのか、どの顔も笑顔だった。




10/25、月例会があった。皆さん強くなられていて、ボコボコにやられた。小川抜刀斎殿と二人、やっとのことで牛深へたどり着いた。2,3年前からすると、皆さん腕を上げられた。うれしかぁー。

そんな中、工場に「招かざる客」が現れた。
次男と留守番していた時のことだった。俺は机でうたた寝、次男は、スマホをいじっていた。すると椅子の下を黒い小さな影が工場の中へ入っていた。二人とも「猫だ!」と直感し、工場の中を探したが、見つからなかった。外に出て行った気配はない。
「玄関を開けとけば、その内で出ていくよ」と言って、しばらく開けていた。翌日、次男とデスクワークをしていると、次男が肩を指でつついて、後ろを見ろと言う仕草をした。振り返ってみると、小さな黒っぽい猫が、風呂場の脱衣所のところから、こちらを見ていた。
「アッ、こいつ出て行ってなかったなぁー」と思って、追い出そうと思ったが、子猫だし、うちにも生まれたばかりの赤ん坊がいるから、可哀想だと思い直して、蒲鉾と牛乳を小皿に入れて出してみた。



蒲鉾は食べた。しばらくして、工場の中の方へ行き、大きな声で鳴き始めた。親を呼んでいるのだろう。
外から、親がすぐやってきた。そして出て行った。



めでたしめでたし。で、良かったのだが、しばらくして次男が呼びに来た。
「こっちへ来て」と行ってみると、そこには空になった塩袋の上に猫のウンチとショウベンがしてあった。「クソーッ恩を仇で返しやがって」といくら怒っても、後の祭りだった。

もう一人、珍客が来た。皆さんこの写真は何と思いますか。



これは「サソリモドキ」といって、牛深市の天然記念物に指定されていたやつです。生きているのを見たのは、小学生の時以来だ。牛小の前の墓地あたりに生息していた。それが何で、工場の中にいるんだろう。グロテスクであまり気持ちのいいものではない。トカゲとか蛇類は大嫌いだ。

でも、いつ来ても嬉しい客もいる。
この頃、仕事をする度に、工場見学に来る、孫娘だ。









笑い顔を見ると、癒される。寝てるか泣いているかだが、泣き出したら、火が着いたように大声で泣く。家族全員と従業員とで、おいさめするのだが、手に負えない。



この頃は、甘えるタイミングや、泣くタイミングを心得、知恵も少しずつついてきている。
泣く子と地頭には、勝たぬ。  


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2021年09月26日

ツムギの職場訪問

『暑さ寒さも彼岸まで』と言うが、日中はまだ暑いものの、朝晩は肌持ちの良い季節になって来た。
8月には、北海道の友人からメロン、9月には南関の恩師から恒例の栗が送られてきた。
メロンは1週間くらいしてから食べた。仕事中、暑い中に冷えたメロンを3時のおやつにみんなでほおばる。




一瞬で汗も引き、生き返った心地がする。
栗は、着いた翌日に、栗ご飯にして食べた。



今年の栗は、鮮度が良かったのだろう。とても甘くて、美味しかった。
北海道の友人、南関の恩師様、この場を借りて厚くお礼申し上げます。
そういえば、35年くらい前に森永グリコ犯事件があったことを思い出した。とうとう未解決で迷宮入りになったが、犯人に共通の好きな食べ物があったことが、警察の調べで分かったそうだ。「へぇーどんな食べ物だろう」「栗ご飯」だとさ。

そんな中、生後1ヵ月と5日目のツムギが初めて職場訪問にやって来た。
ドラえもんに「どこでもドア」というひみつ道具があるが、それを真似たのか、「ツムギのどこでもドアー」と言ってやって来た。



「オッやるなこいつ」「よく来たナァー」と抱っこした。「おまえなんか知らないヨ」とベロを出した。



まずは、従業員にご挨拶。




最初は目が明いてたが、まだ眠いのだろうか、目がトローンとしている。




「あぁーあー、とうと寝てしまった。」



寝顔を兄弟で見ている姿が微笑ましい。



1ヵ月と15日目、再び職場訪問に来た。その日は機嫌が良かった。従業員さんたちにも抱っこしてもらった。




最高にかわいい写真が撮れた。



本当にかわいい。最後に俺が抱っこしようとしたら、「あんたはダメ!アッカンベー。」とベロを出した。



「こいつ、オレの素性を知ってるなぁ!」

9月22日、汗疹が首に出たので、クリニックに診察に行った。
危険を感じたのだろう、火が着いたように泣いたそうだ。トラウマにならなければいいが。
帰りに工場に寄った。「オオ、怖い目に遭ったネー」と抱っこした。



「アッよく見るとこいつ加藤清正と偽名を使ってる奴だなぁ。オイオイもう少し優しく扱えよ。ただ抱っこすればいいってもんじゃないよ。これだからトーシロは困るんだ。」と言わんばかりにオレを見つめてる。
やっぱり嫁とか、母親に抱かれると安心して眠ってしまうようだ。




こいつは強敵が現れた。
いかんいかん、このままじゃ主役を持っていかれる。これから先が思いやられる!
  


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2021年09月16日

スタンドバイミー(完結編)『遠見山、権現山踏破』

あれは、小学6年生で冬休みも終わり、3学期が始まったとある日曜日の事だった。
八幡宮の境内で遊んでいると、リーダーが「昼飯食ってから、遠見山に登ろうかい。」と言った。
午後からの予定もなかったので、参加することにした。
リーダーを含めて、6,7人くらいの編成になったと思う。
天気は晴れ、まだ冬だったので、少し寒かった。
牛小の裏道を通り、水道山(今の日本庭園)に登り、小さな山道をみんなで登って行った。山頂には小一時間位で着いた。山頂にはテレビ塔が立っていた。



リーダーが言った。「この遠見山は昔は、海底だったとぞ。」と、「その証拠に足元を掘ってみろ。貝殻の化石が出るから。」と言ったので、棒で掘ってみた。なるほど、あっちこっちから貝の化石が出てきた。記念にポケットに入れる者もいた。
その頂上から、久玉方角を見ると、そこには権現山というこの遠見山より高い山がそびえたっていた。



時間は2時くらいだったと思う。リーダーが「これより、久玉に下り、そこから権現山を踏破する。」と言い出した。嫌な予感がしたが、みんな逆らえない。
久玉は吉田の変電所近くに下りた。
旧道吉田道から、竜ヶ越に行くカーブの所に変電所はあった。
そこの右側に小さな小道があった。そこから登って行った。知らない道をどんどん登って行った。
山頂についた頃は、日がだいぶ傾いていた。山頂付近はまだ残雪が残っていた。さぁー下山だと下り始めたら、すぐ横に小さな祠があった。
みんなびっくりした。その周りには椿の花が少し咲いていた。辺りは薄暗く、風が吹いてきて、周りの木がザワザワと鳴き始めた。
まずいぞ!昔話に出てくる「山姥」が近くにいるんぢゃないかと思ったら怖くなってきた。
長居は無用。みんな一目散にその場を離れた。帰りは、下り坂だったせいもあるが、みんな速いこと速いこと。俺は殿だったので、何んか後から追いかけて来そうな気がして、生きた心地はしなかった。
久玉の無量寺のところまで来た時、やっとここまで来たかと安堵した。腹も減ってきた。今の牛高の裏の旧道の所に、小さな商店があった。
みんな金を出し合った。15円くらいあったので、「いもアメ」を買った。1円で2ヶ来るので、30ヶをみんなで分けた。うまかった。
時間は6時を回っていた。久玉から宮崎までは2時間弱はかかるだろう。8時頃帰って来た子供を褒める親はいなかったと思う。
でも怪我もしないで、無事帰って来ることが一番の親孝行である。

スタンドバイミーの主人公が、友の訃報に接し、心の中でつぶやく「12歳だったあの時のような友達はそれからできなかった。誰でもそうなのではないだろうか?」という所に、小欄も共感し、この4つの冒険の話を書いてみた。
確かにあの時のような、友達は出来なかった。
隊長であった祐の字は他界したが、長島の義兄、みよっしゃんとオレ、三人だけはまだ固い絆で繋がっていた。
会うたびに冒険の話が出る。
テレビも携帯もない時代に、少年期を過ごされたことを幸せに思う。 


  


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2021年09月08日

お宮参り

神の国の話
7月の末、雲の上の広場に8月に産まれる女の赤ちゃんたちを集めて神様が話し出した。
「下界の貝川蒲鉾店に、女の赤ちゃんが産まれることになっている。誰かそこの子供になる希望者はいないか?」と。
すると広場内がザワつき始めた。
「アソコのじいちゃんは、加藤清正と偽名を使っているそうよ。」
「趣味はつまみ食いだって!」
「特技は掛け算の九九が言えるって豪語しているらしいよ。小学3年生でも言えるのにネー。馬鹿みたい。」
「昨日も松本内科で、検尿のコップを持って採尿を取っていたら、コップを持っている指に、少しシッコがひっかかり、右手に持ち直して、左手の露を振り払おうとして、勢いよく指を振ったら、便器の角に強くぶつけ、あまりの痛さに、思わずその指を口の中へ入れようとしたそうよ!」
「いやねー」「最低」
「しかもシャツのボタンを掛け違えているのを知らないで、心電図を取った後、ボタンを留めようとしたら、また2番目の穴に入れようとしたので、看護師が見かねて、「また2番目から入れようとしている。もう1つ上から、ボタンをははめんば!」
そう言われて、初めてボタンの掛け違えに気づいたそうよ!」
恥ずかしいー。やーねー。わたしなら死ぬわぁー。
非難ごうごうの中、1人の赤ちゃんが立ち上がり、「私が行きます!」と力強い声で言った。
「何か面白そう。フフフ」
「えー、他にも裕福な家庭はいっぱいあるのにー。」
「オー、君が行ってくれるか。あそこは、じいちゃんを除けば、みんな良い家族ばっかりだから、幸せになるよ。あの男は、馬鹿をやってないと生きてはいけない男だから、気にしなくていい。」
「8月1日に君は産まれることになっている。名前が決まったら、33日目にお宮参りに来るように。お神酒も忘れるなヨ。」
「ハイ、ジャー行って来ます。」
「オイ、待て待て、このリュックサックを忘れるな!これには、君の人生の運が入っている。どうにもならん時だけ開けて、少しずつ使うように。」
「ハイ、わかりました。」と言って、羽根の生えた翼にリュックを背負って下界に下りて行ったのである。

9月2日は、産まれて33日目の日。神様との約束の日だった。
当日は、赤飯が7時半頃来たので、神様に塩と赤飯とお神酒を上げた。
ご近所にも赤飯を配った。お宮参りの時間は、11時だった。
嫁さんのお母さんに、赤ちゃんを抱いて参拝してもらうようにしていたのだが、急用ができて来れないということで、うちの嫁が急遽代役を務めることになった。
少し時間にゆとりを持って出かけた。八幡宮で落ち合うことになっていた。
長男たちも着き、車から降りて来たので、「着物は持って来ただろうな。」と聞くと「アッ、忘れた。」と言って、慌てて家まで取りに行った。



この着物は嫁さんのお母さんが、娘が産まれたときに作られた着物だそうだ。でも、ご主人のお母さんがもう作っておられたので、そちらの方を宮参りには使われて、この着物は一回も使用しないまま、タンスの中に眠っていたのである。
30余年の時を経て、やっとここに日の目を見ることとなった。





11時に神事が始まった。「ドン、ドン」と太鼓が打ち鳴らされた。するとツムギが、「ビク、ビク」と体を動かしたそうな。




お神酒、お初穂料、玉串を奉納し、全員お祓いを受けた。
神事が終わった後、宮司さんのはからいで、神様の前で記念写真を撮ることが許された。






時計を見てみると、11時40分だった。「昼食をみんなで食べるかー。」と言って、海彩館に予約を入れた。着いてみると、平日なのに結構お客さんが多かった。
刺身定食にしたのだが、なま臭くて、いまいちだった。
ハンバーグか天ぷら定食にすべきだった。



ツムギは疲れたのだろう。予約席の前で大の字になって眠ってた。顔を覗いてみると、心なしか、オセ、オセした顔になっていた。



きっと神様が魂を入れて下さったに違いない!  


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2021年08月29日

スタンドバイミーパートⅢ(龍仙島漂流記)

小欄の6年生の頃は、まだ週休2日制はなかった。土曜日は半ドン。振替休日は無し。
当時はテレビもなかったし、土曜日の午後から日曜日にかけて、この貴重な休みを何して遊ぼうか、心がウキウキしていた。宿題なんてやってられるか!
遊びは海か山か広場か、この3つに決まってた。
我が決死隊は、春から夏にかけて、海遊びが主だった。朝食を食べ終わると、誰となくリーダーの家に集まる。今日は何して遊ぶか決める。決まったら、来てない仲間に知らせに行く。
その日は、まだ櫓を漕げない者がいるので、宮崎の湾内で練習することになった。初心者にはまだ力配分がわからないので、手にマメができる。そんな時は手に包帯を巻いて漕いだ。練習の甲斐あって、みんな漕げるようになった。
ある日の事、今度は湾を出て、外海で練習しようということになり、須口の一番先の剣崎まで、漕いでいくことになった。
写真中央右端の黒い山が見えている。その先から防波堤が伸びているのが剣崎。当時は瀬で防波堤はなかった。





そして、写真中央に見える小さな島が、龍仙島だ。
その日は快晴で、凪だった。剣崎に着いた。剣崎を過ぎると、外海になる。そこに赤色の浮き灯台があることをリーダーも俺も知っていた。
「よし、灯台まで行こう」とリーダーが言うと、「よし、行こう」とみんな心がウキウキしていた。広い海原にポツンと1つ赤い浮き灯台が見えた。
みんな灯台を回って帰るだろうと思っていた。するとそこから正面に龍仙島(片島)がくっきりと見えるではないか。
そこでリーダーはあと1時間くらい漕げば、龍仙島に着くんじゃないかと思ったんだろ。「今から龍仙島に向かおうと思うが、みんなはどうだ」と賛否を問うた。行く者2人、反対2人、どっちでもいいが3人で、行くことに決まった。
舟は龍仙等に向けて漕ぐのだが、漕いでも漕いでも近まらない。牛深はだんだん遠くなり、辺りは島影すらなくなった。
船上は沈黙が続き、とうとう中学生の先輩が泣き出した。みんなびっくりした。「兄貴、帰ろうか?」と進言する。
「そうだな!」「よし、作戦は中止、これより帰途に着く。牛深に向けて面舵いっぱぁーい」みんなで、「面舵いっぱーい」「ようそろー」
今も、義兄と会えば、この話が出てくる。ケータイもスマホもない時代、小中学生が、伝馬船で龍仙島まで、漕いでいくということは、とても無謀だった。
たとえ、あのまま漕いで龍仙島に着いたとしても、また今来た距離を漕いで帰ることは、絶対不可能だ!
強い東風が吹いてきて、天草灘の方へ流され、そのまま東シナ海へと流されたらどうなっていただろ。思い出すとゾォッーとする。
あの時彼が泣いてくれたから、現在の自分たちがあると思う。
その後彼は、自然と仲間から離れていった。
我々も決してその時のことは人には言わない。もちろん名前も。
次回「遠見山、権現山踏破」
  


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2021年08月26日

スタンドバイミーパートⅡ(黒島上陸編)

小欄が小学6年生に入る前の春休みの出来事だった。
年長者の隊長が卒業して、大阪に集団就職して故郷を離れた。港まで見送りに行った。
桟橋は大勢の見送りの人であふれていた。
水俣丸のデッキには、学生服を着た男女の就職生が横一列に並んで色とりどりのテープを片手に掴み、最後の別れを惜しんでいた。
桟橋を挟んで、反対側の船のデッキでは、牛中のブラスバンドが陣取り、「軍艦マーチ」とか、「校歌」とかが、演奏されていた。
私も、バンドの一員になりすまして、特等席から見送った。
出航の笛が鳴る。すると、「螢の光」が演奏され、船が静かに動き出す。男子学生は片手でテープを握り、帽を振り、女学生はときおり涙を拭きながら、大きく手を振った。
船の別れというものは何かと情緒があった.

リーダーが居なくなった決死隊は、新リーダーに中学3年の上筋睦雄が着任した。通称「むっちゃ」いわゆるこのブログでおなじみの長島の義兄である。
ある日のこと、同級生の友達から、山のトンビの巣にトンビの卵を取りに行ったことを聞き、「それなら俺たちも」ということで、山は山でも黒島のてっぺんのトンビの卵を取りに行こうと、新リーダーの独断で決定された。
今度は歩いては行けない。伝馬船が必要だ。
幸い、決死隊の仲間に宮前三吉「通称みよっしゃん」の親父さんが、大きな伝馬船を持っておられたので、その舟で行くことになった。
中学生4人、小学生4人の8人で編成された。
伝馬船には、鍋、水、マッチなどが常時収められていた。食べ物は現地調達。後は、小刀(肥後守)を各自携帯。
今回も親には内緒で、出発することになった。

天気は晴れ、風は凪、絶好の冒険日和だ。
宮崎湾から、櫓をこいで出発。当時小学生高学年でも、櫓は漕げたし、中学生でも漕げない人もいた。



写真右上から、左端の黒島まで、約40分くらいで到着する。
潮は大潮、干満の差が激しい時期、満潮で黒島の奥まで満ちていた。ラッキーと思い、みんなすぐ上陸した。



まずは、黒島探検からだ。山に登り、トンビの卵を取りに行く者、海岸線を探索する者と分かれた。
俺は卵には興味がなかったので、海岸でミナとかメノハとか食べられるものを探した。30分くらいしたら、山に行った者たちが戻ってきた。
トンビの巣と思って行ったら、カラスの巣だった。カラスの攻撃に遭い、追われて逃げてきたそうだ。弱い決死隊だった。
潮も引いたので、舟の周りで、みんなでアサリ貝掘り、手の空いた者は、メノハを取りに行ったり、ジャガイモを掘りに行ったりした。
舟から鍋やマッチや水を下ろし、小石で竈を作って火を焚いた。鍋にアサリ貝を入れて炊いた。アサリ貝を取り出し、その出し汁でメノハを炊いた。また、その出し汁でジャガイモを炊いた。
それをみんなで食べた。味は憶えていない。でも少し塩辛かった気がする。
腹を満たすほどではなかったが、その場にある食材を使ってみんなで食べる。これがアウトドアの楽しいところだ。
時は2時を過ぎていた。すると、大変なことに気づいた。
朝着いたときは、黒島の入り江の奥まで潮が満ちていた。だが、今の状況は、潮がずっと引いている。ここまで潮が来るまでに2,3時間かかる。日が暮れてしまう。やっとみんな、今、自分たちが置かれている状況がのみこめた。
みんなで知恵を出し合う。手分けして、舟の下に敷く小さな丸太をみんなで探しに行った。5,6本担いできた。
舟の下に敷いてみんなで押したが、重たい。背丈ぐらいの木の棒を4本探してきて、テコの原理を利用して肩に押し当てて舟の両サイドから押した。そしたら、少しずつ動き始めた。やがて浜辺の中ごろまで舟を運べた頃、塩も満ち始め、やっと舟が浮かぶ状態になった。バンザイ。
みんな乗船し、ホッとした。「さぁーこれで帰れる」と思った。だが、試練はこれからだった。突然須口の方から、西風が吹き始めた。漁師語であなぜの風である。
櫓を漕いでも、漕いでも、向かい風で舟が進まない。櫓漕ぎの達者なのは、リーダーと俺くらいだった。みんな舟板を外して両サイドから舟板で漕げと、リーダーが命令する。長手の瀬戸に流されたら、帰って来れんぞ!(当時は通天橋はなかった)



みんな力を合わせて、宮崎の八幡宮の見えるところまで来ることが出来た。家の人たちも、夕方になっても帰って来ないので、八幡宮のところに集まり、我々の行動を見守っていた。
怪我人も出さず、無事帰還することが出来たが、後で船主の宮前の親父さんにリーダーは呼び出された。
「あがん風の強かときは『生け簀』の栓を抜き、海水を入れると舟は重くなって流されんと。」とアドバイスを受けたが、子供にそんな知恵はない。祐ちゃんの親父さんも、みよっしゃんの親父さんも決して頭ごなしに怒らなかった。むしろ自分たちで行動を起こし、失敗をしながら経験を積み重ね、少年から大人になっていく、我が子の成長を遠くから見守っていて下さってる。そう思った。

次回「龍仙島(片島)漂流記」
  


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2021年08月22日

スタンド・バイ・ミー(そばにいて)パートⅠ(下須島一周編)

この曲大好き ♪ダァーリン、ダァーリン、スタンド、バイ、ミー、オープリーズ、スタンド、バイ、ミー♪
ひと夏の子供たちの冒険を描く米映画『スタンドバイミー(1986)』が5月末、地上波で放送された。また見てしまった。
大人になった主人公が、冒険の旅で心を開いて打ち解け合った友の訃報に接し、思い出と共に悼む場面が有名だ。
心の中でつぶやく「12歳だったあの時のような友達は、それからできなかった。誰でもそうなのではないだろうか?」
この問いは何も「12歳」という年齢に狭くかかるものではあるまい。少年期には大なり小なり、人生に影響する友達との出会いが「誰でも」あるということだろう。

今日は小欄の少年期(小学5年)について語ってみたいと思う。

ある日、リーダーの祐の字(当時中学2年生)から召集がかかる。
祐の字の家の二階に集まると「次の日曜日に下須島一周することを決めた」と言って計画を話し始めた。当時は下須島にはまだ橋はかかってなかったので、天附丸という渡し舟が瀬崎から通っていた。用意するものは、船賃往復10円、小刀(肥後守)、ゴム銃(二股のパチンコ)、水、食料は現地調達とのことだったが、ゴム銃のことを質問したら、「鳥を見つけたら、これで撃ち落とし、それをみんなで焼いて食べる。」その当時鶏肉なんて食べたことがなかったので、みんな疑う余地もなくゴム銃を持参した。
この時祐の字は、年長者だったので、一二さんとか祐ちゃんとかなかなか呼びにくかったので、「隊長」と呼び名が付いた。
隊長以下6名の決死隊が編成された。

日曜日の朝八時、みんな親には行き先を告げず、瀬崎に集合。天附丸に乗船、いよいよ未知の世界へ出発である。
二度と生きて帰れないとは知らずに。オイオイ、縁起でもない!

天附に上陸。一路右回路で砂月を目指す。
黒田からはるはえまでは、道じゃなく海岸を歩いた覚えがある。
はるはえの所で海岸はストップして海になっていた。
それから山道はなく、みんなでケモノ道を探して進んだ。
牛深炭鉱の所にでて、海が見えてきた。砂月に着いたのは正午過ぎだった。
計画ではここで鳥を撃って焼いて食べる予定だったが、鳥一匹もいない。今思うと、鳥が何羽いようが、ゴム銃で当たるわけがない。なぜか妙にそこの所だけ記憶に残っている。砂月から元下須までは1本道だったから、歩くだけだった。途中イワシ納屋とかがあって、道端に干してあるセイロのイワシを失敬して飢えをしのいだ。天附に着いたのは午後4時ごろだったと思う。親もいなく、引率の先生もいなく、自分たちだけで成し遂げた達成感は、その後の人生に大きな力を得ることになる。これで自信をつけた決死隊は、さらなる冒険に旅立つことになる。
次回「黒島上陸編」をお楽しみに!


8月15日「月紬」に会いに行く。今日は目を開けていた。
初めて抱っこして見た。軽い!「じいちゃんは月紬に会うため70年待っていたんだぞ」と言ったとたん「ブゥー」とオナラをした。



「こいつ俺を屁とも思ってないな!」






「アッ、身も出てる」と長男。





「それなら早く変えてやらじゃ」と、感動のご対面と思っていたが、全く締まりのない話になってしまった。先が思いやられる。  


Posted by 貝川蒲鉾店  at 22:52Comments(1)